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マル・ウォルドロンというピアニストがいて、かれが池袋のサンシャインで無料の演奏をするというのでみにいくことにした。
予定された時間にその場所へいくと、ピアニストがあらわれて演奏をはじめた。こんなことはいうべきじゃないが、そのすがたはいたましくみえた。そこはサンシャインのなかの広場で、通行人があたりをいきかっている。そしてかれは、そんなところで演奏をするようなピアニストじゃない。だって、マル・ウォルドロンだぞ? なんでこんなところで演奏しなくちゃならないんだ? なんでかれはこんな話を承諾したんだ? おれはそうおもったが、ピアニストは無言で、訥々といくつかの曲を演奏して、三十分ほどでそれはおわった。ピアニストをとりかこむようにして椅子にこしかけて見物していたまばらな聴衆は、ぱらぱらと拍手をし、その場所からいなくなりはじめた。おれと一緒に演奏を見物していた女の子が、手にしていた袋からふるびた一枚のレコード・ジャケットをとりだして、ピアニストのところにあゆみよった。そこで彼女がピアニストになにか話しかけると、ピアニストは笑顔になって、レコードにサインをした。もどってきた彼女にみせてもらうと、それは「レフト・アローン」というかれの出世作になったレコードだった。
「なにを話したのさ」とおれがたずねると、
「サインをしてください、これはわたしが生まれて初めて両親に買ってもらったレコードです、って、そういっただけだよ」
「初めて? それっていつだよ」
「五歳のとき」
これにはあきれた。「レフト・アローン」は、おれの常識では、五歳の女の子がおねだりして買ってもらうレコードじゃないからだ。それで興味をもったおれがいろいろたずねると、彼女はそのとき十九歳だったが、駒込の実家に五千枚のレコードをもっていて、だからそれからずいぶんたくさんのレコードをおれやおれの仲間たちは彼女に貸してもらって聴くことになった。
その五千枚のレコードの、記念すべき最初の一枚が「レフト・アローン」なのだとしったら、ピアニストはもっとよろこんだろうにな、とあとになっておれはおもった。
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