とり  98番

 そうしてもうすぐ100番めの作文をアップロードすることになるのだ、と気がついておれは途方にくれることになる。98番。この、ブルペンキャッチャーの背番号のような番号のしたでおれは途方にくれている。98番。ほんとうにもうすぐだ。100番だからなにかの感慨にふける、とかそういったわけではないのだが、おれはそれをひとつの目安にしていた。もちろんこのホームページは、ぽいうページは、どうしてもこれだけはよのなかに訴えておきたいといった確たるものなどなにひとつなくて、それどころかなにを訴えたらいいのかすらわからなくて、とりあえず作文でもならべておこうという、われながらたいへんに安易な気ぶんではじめられたホームページだ。しかし、安易ではあるがそれでも、開設するさいにはそれなりにすこしはかんがえた。なにか傾向というものはあったほうがいいだろうとかんがえた。それでまずさいしょの100本は女の子方面の話をならべておこうと、そういうことでやってみた。100本もあげれば、そのうちなにかよからぬことをおもいつくだろう、もしかしたらじぶんでもしらなかった素晴らしい才能があらわになるかもしれない、そうだったらいいな、と日本の文字をここにうめこんできた。そうしてもうすぐ100本になるのだ、と気がついておれは途方にくれている。1本めをアップロードしたときとなんにもかわらない、と気がついて途方にくれている。あまりにだらだらとやってきたので、ほんとうにだらだらとなってしまったらしい。おまけに、100本もかいたらあらかた女の子方面の作文は気がすむだろうとおもっていたのだが、ぜんぜん気がすんでいない。それどころか、なんにもかいてないような気がする。なんてこったい。だいたいそういえば、じぶんでもわすれていたのだが、おれにはそもそも壮大な予定というものがあって、はじめの100番くらいは女の子方面の話をつづって、つぎの100番くらいは男の子方面の話をつづって、それからつぎの100番くらいはヘリクツでもこねて、それからつぎの100番はひとり卍固めでもして、それから‥‥なんて話はだれもききたかないですね。すまん。あまりにもどうでもいい話だった。しかしあいかわらず話はながい。とくに、どうでもいい話となるとながい。なにをかこうかと主題をきめずに話をしだすといつだってきりがない。そういえば中学校を卒業するときに卒業文集というのをつくるので作文をかかされたのだが、興にのってながいのをつづってしまい、中略されたことがある。卒業文集にのったじぶんのタマシイの作文にとちゅうで「‥‥(中略)‥‥」の文字列をみつけたとき、おれは腰をぬかすほどたまげた。むろんほかにはそんな作文はない。おれの作文だけが中略である。いくらなんでもこれはあんまりではないか、と抗議をしようかとおもったが、そもそも中略されるようなだらだらした作文をやらかすおまえのほうがあんまりだ、と反論されるのは目にみえていたのでやめた。そのかわりに春休みに職員室にしのびこんで、作文をかかせた国語の女教師のイスに糸ノコで切れ目をいれておいた。いまとなってはどうでもいい歴史の話だ。しかし、そのとうじはわりとショックをうけた。たしかにすこしはながかったかもしれないけど、それにしたって中略はないよなあ中略は。おれの中学生時代は中略かよ。中略時代かよ。そりゃねえよなあ。中略するにしたって、せめてまず本人に確認をとるべきだよなあ、いきなりはひでえよなあ。と、このときばかりはおれもおおいに懲りて、作文をするさいはとにかく話をはやく、みじかくきりあげるようにこころがけるようになった。こころがけるようにはなったが、じっさいにみじかくできるようになったかというとそんなことはまるでない。よく小学生のころに物語をよまされて、そのうえで話のアラスジというのを書かされたりしたが、おれのばあいはつい油断をしているとホンチャンよりながくなってしまう。それのどこがアラスジだ、とつっこまれそうだが、でもおれはそういうタイプの、つまりジ‥‥(中略)‥‥うなにんげんなのだ。そういうタイプなのだ。だから通信をはじめたときにはずいぶんといらない苦労をした。さいしょにアクセスしていたBBSが「かきこみは1行40字で40行以内をこころがけてください」というひじょうに狭いこころがけのところで、じっさいにこころがけてみるとこれがおれにはタイヘンな苦行だったのだ。たとえばこの作文もまた、おそらくすでにこの「1行40字で40行」という地点を突破しているとおもうんだけど、ここまできていまだになんにも語っていないことにおれは気づく。前フリのいりぐちをさまよっているあたりなのだとおれは気づく。こういうにんげんが40行作文をめざすのだから、これは苦行というほかはない。肩身がせまいをとおりこして、拷問である。おまけにおれがそんな拷問にたえながら作文をしているというのに、まわりのメンバーは文句たらたらである。べた書き、という用語で称されるのだけど、おれの作文はとうぜんこういう、改行をいれずにべた〜っと日本の文字をうめこんだ画面のものばかりにならざるをえなかったのだが、これのせいで「読みづらい」「つかれる」「なんのつもりだ」「だいたいひらがながおおすぎる」といった理不尽な文句をなんどもたれられた。もちろんおれのしったことではない。改行なんてしてたら、それこそあっというまに40行に到達してしまうじゃないか。「その1行は値千金の1行である。」もしもいつの日か「ぽいう語録」なんていういんちき本を編さんすることになったらまず1行目にこの言葉をもってこようとかたく誓ってしまうくらいの決意でもっておれは通信をやらかしていた。うそだけど。そんで、そんなふうにいつも40行におさめようと、改行もせず、文字数をへらすために嫌いな漢字もまぜて作文をしていると、不思議なもので、こういうべた書きの字ばかりの画面がうつくしくみえるようになってきた。ほかのひとの文章で改行してるのをみたりすると「なんで改行なんてするんだっ、そのあとの空白がもったいないじゃないかっ」などと憤るようになってしまった。というのもうそだけど、とにかく、このべた書きの画面になれてくると、これはこれできれいにみえるものなのだ。通信をやりだして一年くらいしたころ、おれはその域に到達した。もちろんそこにいたる道はけして平坦なものではなかった。たとえばこんな事件があった。それはおれがまだマ‥‥(中略)‥‥わけである。そのころになるとまわりの連中も、この画面をみるたびに「またか」とウンザリしながらも「アレは病気なのだから」とおおめにみてくれるようになったらしい。あまり文句はいわれなくなった。それともちろん、この手の画面をみるとはじめからよみとばすひとというのはたくさんいて、そういうひとははじめから文句をいってこないので安心だ。そんなふうに世間の荒波にもまれながらもどうにかじぶんのスタイルというものをきずきあげて安定した通信じんせいをおくりはじめたやさき、なんの因果かこんどはさらに「1行11字で50行程度」という作文を無理矢理いくつも書かされるハメになってしまった。このときはもう苦行を通りこして地獄であった。おもいかえすだに身の毛もよだつ生き地獄であった。それは作文というよりも俳句というほうがおれにはちかい。11字で50行といったら、550字だ。このホームページのあのやるせない伝言板にケが3本はえたていどだ。いったいそんなネコの額の重箱のスミでなにをどうしろというのだ。考えてもみてほしい。相撲レスラーがエコノミークラスのシートにむりやりすわらせられるところを。それは、苦行とか拷問とかいうものではなくて、不可能なのだ。単純に、物理的に、不可能なのだ。不可能に挑戦するだの、不可能を可能にするだの、くちではきれいなことはいくらでもいえるが、おれにいわせれば、不可能なものは不可能なのだ。だから不可能というのだ。だいたいみんなも察しはついてるだろうけれど、おれはこういう、無限作文の男である。だらしなく言葉がどこまでもジャジャ漏れる、際限なく漏れつづけたその地平のさきには雲ひとつないソラがひろがるという、じぶんでもなんだかわけのわからない中略男である。そういう男にむかって550字というのは、片腹痛いをとおりこして腸閉塞である。あまつさえ腸捻転まで併発している。もとより道はおぼえない。そういう男にむかって550字というのは、いくらなんでもあんまりだ。ためしにおれはここまででどれくらい文字をうちこんだものだか、このJeditに勘定させてみたのだが、3560字というお告げであった。しかも‥‥(中略)‥‥だってはいっている。三つかそれくらいはいっている。それでもすでに550字の6倍をこえている。いったいおれにどうしろというのか。とひらきなおったところで、とつぜんだがここから話はいっきに収束へむかう。3560字というのをみて、すこしびびってしまったからだ。こんな無意味な話で3500字というのはあんまりだとわれながらおもってしまったのだ。550字でなにかかけというのもあんまりだが、3500字かいてなんにもかたっていないというのもあんまりだ。だからいいかげんおわりにする。かといって、あまりに急な展開なので、どうオチをつけていいものか、さっぱりかんがえてない。そんなわけで、もうしわけないのだがこの話は「つづく」ということにさせてもらいたい。そうだ、いっそのこと198番でこの話のつづきをすることにしよう。なに、もうすぐだ。もしこのホームページ娯楽にまだあきていなければ、夏になるころかそれくらいには到着するだろう。まさか198番になってもまだ途方にくれてるなんてことは、いくらおれだってあるまい。それに‥‥(以下略)

[05,02,2000]