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浪人の夏に学校の警備員のアルバイトをしたことがある。ひと夏だけのアルバイトだ。区役所でかかりのひとにあって面接をすませると、予定表と地図をわたされた。予定表には学区内の小学校や中学校の名と勤務すべき日付とがしるされていた。7月の後半から8月のおしまいまで、ほぼ一日おきにおれはそのアルバイトをした。警備員といってもその仕事に特別なものはなにもない。ほかにだれもいなくなったら校門をしめ、とじまりをして、あとはただ二時間おきに、警備員用のまるいおおきな時計をぶらさげて、校内の指定の場所を巡回するだけ。あとはなにもすることはない。電話がなったら応対をして、メモをのこしておく。けれども、電話がなることなんて一晩にいちどくらいしかない。つまり、ほんとうに、なにもすることがないのだ。ようするにこのアルバイトの要諦は、ありあまる時間をいかにしてつぶすか、その一点につきる、と、学校で一晩ねただけでおれはそう気がついた。それでおれはたいていは、ともだちをさそって夜のプールでおよいだりとか、体育館でバドミントンをしたりとか、ときには女の子をさそって校長室で性交をしたりとか、そんなふうにしてすごした。それでも、いつもそうそうともだちや女の子がつごうよくあそびにきてくれたわけでもない。ひとりきりですごすことになる夜もある。
その夜もそうだった。その日の当直はツカダ先生という、たぶん四十代のメガネをかけた女の先生で、日がくれたあともひとり職員室にいた。おれは警備員室でテレビをながめたりしていたのだが、けっきょくツカダ先生がおれのところにあらわれたときには夜の九時をすぎていた。当直の先生の帰宅時間にしては異例のおそさだった。ツカダ先生は警備員室のパイプ椅子にこしをおろし、お茶をいれておれにもすすめ、それから話をしだした。
「あたらしい警備員さんね。アルバイト?」
「はい。クリタといいます」
「学生さん?」
「浪人です」
「そう。えらいのね」
ただしくはおぼえていないのだが、たぶんそんなふうに話しかけられて、それからおれたちはしばらく世間話をした。たわいのない世間話だ。ところがそのうち、ツカダ先生が、おかしなことをいいだした。
「ところでね。ここから廊下にでて、すぐそこにトイレがあるでしょう?」
「はい」
「あそこにはあまりいかないほうがいいですよ」
「へ。なんでですか」
「あのね。わたしと同期でこの学校の先生に赴任してこられた女の先生でね、イワモト先生っていうかたがいらしたんですよ」
「はあ」
「わたしたちはどっちも新卒で、イワモト先生にはとてもなかよくしてもらってたんですよ。でもね、先生は、しばらくして、交通事故でなくなられてしまったの」
「はあ」
「それからすこしして、わたしが夜おそくまでこの学校に残ってたことがあったんですけど、あそこのトイレにいって、個室のドアをあけたらね。体操着姿のイワモト先生がなかにいらしたの」
「ゐ」
「先生はね、そこで逆立ちをしていたの。どうしてなのかはわからないんだけど。逆立ちをして、わたしをしたからみあげているんですよ。わたしはもう、びっくりしちゃってねえ。なにか心残りなことでもあったんですかねえ。でも、あまりびっくりしてたら先生に失礼かなとかんがえて、胸のまえで手をあわせて、お祈りをして、ドアをとじました。そして、横の個室のドアをあけるとね、そこにもイワモト先生がいて、逆立ちをしてらしたの」
「‥‥‥」
「わたしはまたお祈りをしてドアを閉じて、その横の個室をあけると、そこでもやっぱりイワモト先生が逆立ちをしてらしてね。ふと気がつくと、その逆立ちのしかたというのがね、すこしずつこちらに倒れてきてるんですよ。それでね‥‥」
「そそそそっ、それでっ?」
「それで‥‥」
「ななっ、なにがあったんすかっっ?」
「‥‥‥」
「どどど、どうしたんすかっ。おしえてくださいっ」
「‥‥いいえ、やっぱりよしましょう。このさきは、とてもお気の毒でお話しできません」
「そ、そんな‥」
「さ、わたしはそろそろ帰らなくちゃ。じゃ、アルバイト、がんばってくださいね。戸締まりをよろしくおねがいしますね。それではおやすみなさい」
そういいのこしててツカダ先生はいそいそと警備員室をあとにした。おれはツーっとハナミズをひとしずくたらしてツカダ先生をみおくった。ヤラレタ、とおれはここではじめて気がついたのだが、もはやあとのまつりだった。な、なんつうタチのわるいクソババアだ。こんなイヤがらせがあるか? だいたい、おれになんのウラミがあるんだっ? そう憤ってみてももうどうしようもない。おれはすっかりおっかなくなってしまい、せなかのぞわぞわがおさまらない。なんだかあたりがやけに静かだ。廊下のさきのくらやみがどこまでもつづいているようにみえる。おまけに、その廊下には、トイレがあるのだ。これから朝まで、おれはどうやってすごしたらいいのだ。こんな学校にひとりとりのこされて、どうしたらいいんだ。おれは途方にくれた。時計はまだ九時半だった。
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