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しばりょうたろうの『花神』という本をまたぞろよみだしたのには理由というものがあって、というのはなんというかどうもさいきんコトバというものがところどころぬけおちてしまっていて、
「あのほら、銀行でつかう小冊子はどこ?」
「は? 小冊子?」
「うん。ほら、あるだろ、いろいろ金額がかいてあるやつ」
「……貯金通帳のこと?」
「あ、うん。そうともいう」
「……」
だとか
「あ〜ヒマだねえ。こういうときっててもちぶたさだよねえ」
「……」
「なんだ?」
「…あの。それ、ぶさたです」
「なにが?」
「てもちぶさた」
「あ、うん、そうともいう」
だとかいった会話を、つまりもはや「そうともいう」としか返答のしようがない会話をそこらじゅうでくりかえすようになって、どうもこれはおれの記憶のメモリーのハードディスクのなにかともかくそのへんのどこかに欠損がしょうじているのではあるまいかと、そういう懸念がひしひしとしてきたので、じゃあやっぱりドクショだな、ドクショしておぎなっとかなくっちゃなと短絡的にかんがえてブックオフへいって本棚をながめていたらハードカバーの文学全集がよりどりみどり一冊105円でならんでて、どれにしようかなかみさまのいうとおりと順番に指をさしていったら井伏鱒二というところでとまったのでこれをかってきてよんでみたところいきなりサンショウウオの話で、たしかにほんの五分くらいでよみおわったのでそれはたすかったのだがいかんせんなにがいいたいのかサッパリわからない、と、ここまでかいたところでいまだにマルをつけていないような気がするのでこのへんでマルをつけとく。サービス。出血大サービス。。。。。これくらいつけとけばいいだろう。そんで井伏先生はよんでてもなにがうれしいのかちっともわからないのでパスしてさいどブックオフへいって本棚をながめていたらしばりょうたろうの『世に棲む日々』のハードカバーの3巻が105円でうっていたのでかってきてよんだらおもしろかった。しかしこの本は後半の主役の高杉晋作の寿命がおわったところで話もおわってしまうので、しかしまだまだ革命はとちゅうなのでこのさきどうなっていくんだっけかなと、そのさきの話がよみたくなってたしかこのへんがそのつづきなんだよなと図書館でかりてきたのが『花神』でさすがに図書館へいけば全巻そろっていていまその第二巻をよんでいるという、ここにいたるまでにはそれそうおうの壮大な物語というものがあったわけだ。そんで本をよむといろいろとためになるというかかんがえさせられるところがタタあるわけで、おれはなにをかんがえたかというとむかしのひとの名前はいろいろとインパクトがあるものがあるなあとかんがえた。たとえばちょっとまえに桜痴というひとがでてきた。福地桜痴。英語だとouchか。イタイのか。そんでそのちょっとまえには図書というひとがでてきた。みょうじはわすれた。ナントカ図書。なぜ図書。そんなかんじでときどきやぶからぼうに背中からばっさりと斬られるみたいな名前がでてきて、まったくもって江戸時代のひとは油断がならない。そんで、なんでこういう名前がつけられるのだろうかというと、やっぱりじぶんでじぶんに名前をつけられるからではないかと。ちかごろもたしかにけったいな名前というのはそちこちでみかけるようになったがしかし、しょせん親が子供につける名前なので痴の字だとか図書だとかそこまで大胆にふみこんだところまではいけない。けっきょく親子といえども他人であるわけで、いかに親が「これがいい」としんじこんでいようともそのセンスが子供に100パーセントうけいれられるとはかぎらないというか、まずそういう幸福な偶然はおこらないのであって、へたすると「なんでこんなヘンテコな名前にしたんだ」と子供にうらまれることもよくある話だというのは親だってじゅうじゅう承知なので、風変わりな個性的な名前をつけようとおもってもどこかで手加減というか妥協というか、まあこのへんまでなら許してくれるだろうみたいな常識のブレーキがかかってしまうので、江戸時代のひとみたいな「なんでその名前?」とあっけにとられるような文字列はでてこない。やっぱりこれは自分で自分に名前をつけるからで、子供のころは親がつけてくれた名前ですごすとして、それに飽きたらこんどは自分で自分につけるので、そしたらもうなんでもありになる。すべては自己責任なのでもう、世間のみなさまのドギモを抜くような名前はもちろん、画数が多い字をならべてあとでヒーヒーいって「わたしが悪うございました」としぬほど後悔したりとか、ぜったいにだれにも読めないような字をもちだしてきて周囲のひとをたばかってみたりとか、もうなんでもありのすべては自己責任でやりたい放題となる。そんな百花繚乱くるいざきの珍名江戸時代のなかでおれが気にいってるのはなんといってもやはり芹沢鴨さんです。鴨。つけられないよこれは。さすがに親が子に鴨という名前はなかなかつけられない。ていうかじぶんでじぶんに鴨という名前もなかなかつけられない。なんで鴨? そのへんの命名の由来というか事情というものをしらないのでどうしても純粋に疑問というものがしょうじてしまうんですが、なんで鴨にしたんですか? だって、鴨だよ? 鴨。ぜんぜんわからない。もしかしたら相手を油断させようとでもしたんだろうか。芹沢鴨というのはもちろん、新選組のひとなわけですが、こう、相手と刀を抜き合っておたがい構えつつ
「なにやつだ。名を名乗れ」
「芹沢鴨ともうす」
「…は?」
「芹沢鴨」
「…カモ?」
「さよう。カモ」
「失礼ながらそれはいかなる字をかくのか」
「甲府の甲にトリで鴨」
「え。それはつまり、あのトリの鴨? 鴨ナベとか鴨ネギとかのあの鴨?」
「さよう。その鴨」
「さようその鴨って…あの鴨なの? か、鴨って、う、うぷぷぷ、うひゃひゃひゃははあびらどばぶしゅううう」
とつまり、相手をわらわせて油断させといて「びらどばぶしゅううう」のところで鴨は相手を叩っ斬ってるわけですが、そういう実戦的な深謀遠慮をうちにひめつつ普段の生活はたとえ笑い者になってしまうのはしかたのないこととしてあまんじてたえしのびつつ、しかしこれがひとたび戦いの場になれば最強の武器になるのだという、そこまでかんがえぬいた鴨なのでしょうか。んなわきゃねえよな。でも、じゃあなんで鴨なんだろう。謎。芹沢鴨。茨城出身。
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