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そのころおれはまだ十代で、ひとからたのまれて、有楽町にあった喫茶店のてつだいをしていた。とうじのおれがいちばんたいせつにしていたガールフレンドはそれをこのましくおもっていないみたいで、ときどき不平をいわれたけど、それでもおれはしばらくそれをつづけた。その店にはなにか謎めいたものがあり、そのことにおれはむちゅうになってしまったのだ。たしかにそこはかわった店だった。それでも、ちいさな店内は経営者の神経がゆきとどいていたし、コーヒーだってまずくはなかったので、店じたいは順調そのものだった。そこでおれは皿を洗い、アイスピックで氷をくだき、ゆでタマゴのかわをむき、レタスをちぎった。ひまになると、カベをはうゴキブリを数えてすごした。喫茶店のなかではとくべつな時間がながれる。喫茶店の内部はなにかがゆがんでいて、時間もゆがんでながれる。時計はまるであてにならない。だからそこでいちにちをすごすものは、客の顔で外の世界の時刻を判断することになる。産婦人科のヒガシ先生がきたから午前十時、葬儀屋のニシさんがきたから午後三時、などなど。そんなふうにおれに時刻をしらせてくれた常連客のひとりが彼女だ。彼女は午前十一時半を意味していた。まいにちあらわれるわけではなかったが、あらわれるときはたいていその時刻だった。カウンターの、皿を洗っているおれのナナメまえの席にこしをおろし、このくにでココアとよばれているあののみものを注文した。かならずココアだった。彼女は時間をかけてそれをのみ、こみはじめるまえに店をでた。上着のエリのバッジから東京都庁の職員であることだけがわかっていた。けれど、ほかにはなにもわからなかった。いつもひとりであらわれて、しずかに文庫本をよみ、ココアをのみほし、外の世界へかえっていった。
はじめて彼女と話をしたきっかけは、彼女が手にしていた本だった。いつものように彼女がおれのナナメまえに腰をおろし、ココアを注文し、バッグから文庫本をとりだして、水のはいったコップのとなりにそれをおいた。
「カフカ。」おれのくちからおもわず声がもれた。彼女と目があった。
「この本、しってますか?」彼女がたずねた。
「はい。」おれはこたえた。しっているどころか、なんどよみかえしたかしれない本だった。だれかがヨーゼフ・Kを誹謗したにちがいなかった、からはじまって、恥辱だけが生き残ってゆくように思われた、まで、どのページのどの文章も、おれにはなじみのふかい文章だった。カフカにこうじたあまり、大学ではドイツ文学科に入学したほどだった。おれにはそれはそういう本だった。それからおれはフランツ・カフカの話を彼女にした。カフカの話をだれかにするのなんてそれがはじめてだった。たぶん、聞き手としての彼女の態度がすばらしかったせいだとおもう。
そのうちおれたちは外の世界であうようになった。一緒に映画をみにいき、やがておなじベッドにはいった。あるとき、おれのアパートでベッドにはいったあと、おれは彼女のためにココアをいれた。彼女をおどろかせようとかんがえて材料を用意しておいたのだ。彼女は毛布にくるまって、おれのいれたココアをうれしそうにてのひらにだいて、話をはじめた。こんな話。
「くりたくんの部屋で、こうして、くりたくんのいれてくれたココアをのむのなんて、ふしぎな気がする。だって、わたしがずっとむかしからくりたくんのことをすきだったってしってた? しらなかったでしょう? くりたくんに話しかけるきっかけが、ずっとほしかったのよ。わたしたちがはじめて話をしたときのこと、おぼえてる? あのときわたしがカフカをもっていたのは、ぐうぜんじゃないの。わざとだったのよ。」
それはあまりにおもいもよらないことだったので、しばらくおれはあっけにとられていた。
「どうしておれがあの本をよんだことがあるのをしってたの?」
やっとのおもいでおれはたずねたが、彼女はおしえてくれなかった。そしてそれはいまだに謎だ。
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