とり  鯉の王国

 まだ学生だったときのことだけど、ともだちの女の子に「くりたくん、村上龍のコインロッカー・ベイビーズっていう小説、よんだことある?」とたずねられた。ふたりで地下鉄日比谷線にのっていたときだ。「ないけど、それがどうかした?」とききかえすと、「ともだちがいまその本をよんでるんだけど、とてもかわった女の子の登場人物がでてくるんだって」という。どうかわってるの、とたずねると「その女の子はね、お風呂で鯉を飼ってるんだって。かわってるよねえ」と感心したみたいに彼女はいう。車両の座席にすわっておれは、浴槽のなかでおよぐ鯉を想像した。たしかにそれはふつうじゃない、とおもい、だからその小説のことは印象にのこっていた。
 コンロッカー・ベイビーズをよんだのは、それから二年ばかりしてからである。そしておれはドギモをぬかれることになる。たしかに、風呂場でペットを飼う女の子はでてくるのだが、そのペットというのは、鯉ではなくて、鰐だったのだ。ワニ。彼女のともだちはどうも「鰐」と「鯉」とをよみちがえていたらしい。めちゃくちゃである。だって、鰐と鯉といったら、それこそまさに魚類とハチュウ類くらいちがう。しかも小説には、鰐がヒンパンにでてくるものだから、そのたびにおれはのたうちまわることにあいなった。「彼女のともだちはこの場面をどううけとめたんだろう?」と、いやでも想像してしまうのだ。このペットが鯉だとするともう話はすさまじいことになってしまって、たとえばこの鯉は生肉を毎日十キロもたいらげるのだし、あるいはやがて数メートルに成長するのだし、あげくのはてには足で人間をふんずけちゃったりするのだ。足だ足。いったい、足のはえている鯉がどこにいる? そのスガタを想像するのはあまりに強烈で、もう、今夜の夢にでてきちゃいそうである。そんなこんなで小説に鰐が登場するたび、パンツのゴムがきれるほどわらってしまい、とても冷静によめたものじゃない。ぜんぜん関係のないところで、ひっくりかえってわらってしまうのだ。その連続なのだ。こういうのは、ひじょうにこまる。迷惑である。そういうよみちがいはしないでほしい。してもいいけど、おれにおしえないでほしい。そうさけんでみても、もはやあとの祭りである。
 でも、ほかのひとがわらえないところでしぬほどわらえたんだから、それはそれでとくをしたのではないかといわれると、たしかにそうかもしれない。だから、あまりつよく抗議はできないという面はたしかにあります。

[13,10,1999]