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中学生のひと時期、将棋に凝って、寝てもさめても将棋のことしかかんがえなかった季節がありました。授業中も先生の話なんてそっちのけで、頭のなかの将棋盤で駒をうごかしたりしてね。ぐたい的にいうと、中学二年生の梅雨ごろのことなんだけど、おなじクラスにふたり、やっぱり将棋が骨のずいまでしみこんでしまったやつらがいて、やすみ時間に携帯用の将棋盤をとりだして、三人で交互に対局するのがたのしくって、それに熱中して周囲のクラスメートたちの迫害をうけてました。将棋のできる男の子たちはもちろん、将棋がたのしいことはしってるんだけど、それも程度の問題で、あまりにそれにのめりこんでると、距離をおかれてしまう。男の子たちにとって将棋はふつう、たくさんある遊びのうちのひとつにしかすぎなくて、めっぽう強い男の子は尊敬はされるものの、それにばかり時間を費やすようになると、まともにはうけとめてもらえない。おまけに男の子のクラスメートたちの反応はまだましなほうであって、女の子たち一般の、将棋にのめりこんでる男の子たちへの好感度ともなるともう絶望的で、そのころからすでにおれはいまみたいな性格は顕著にあったので、そのあたりの相克にはいささかなやまされました。つまり、女の子たちにはちやほやされたい、それでも将棋はおもしろいったらない、というような相克です。「家でひまな時間には何をしてるの?」と女の子にきかれたときに「専門棋士の棋譜を将棋盤にならべてすごしてる」とこたえて「ひとりで将棋をやってるの? ひとりで? ほんとうに?」となんども念をおされたときの表情をおぼえてます。ゴキブリの交尾をみるようなめつきでした。そのように、おれのいた1970年代のありきたりの中学校の2年1組の教室において、将棋は迫害されてました。原因のひとつには、将棋が根源的にかかえてる、インドアーな、81マスな、とどのつまり内向的な性格にあったとおもいます。ひとことでいってしまうと、はまってしまった人間のやる将棋は、暗かった。おれの個人的な偏見だけれど、はまってしまった人間のやる将棋は、太陽の下よりも、日のささない部屋で静かに、しかし熱くおこなわれるものという性質があって、そうしてそれが、2年1組の女の子たちの多数に、圧倒的に支持されなかったのだ。そうおもいます。それともうひとつ、将棋にはまるやつには、妙なやつがおおかった。おれと学校のやすみ時間に嬉々と将棋を指してたふたりの将棋友達にしても、かたほうはその一年後にキリスト教に凝りだして、「クリタマサオ(こいつはなぜかつねにおれをそのようにフルネームで呼ぶのだった)、君はダーウィンの進化論、あれをどうおもう、おもうにあれは間違ってる、おもうに人間はもとから人間だったし、猿はもとから猿だったんだようんぬんかんぬん(以下5キロバイトほど省略)」だとかなんだとかやりだしておれを辟易させるのだったし、もうかたほうにいたっては、きいたこともないような宗教に凝りだして、「この仏様をおがみだして、医者がさじをなげたわたしの癌が完治しました感謝のしようもありませんブラーブラーブラー」とかなんとかいうたわけた手記ばかりおさめられた本をおれにおしつけてきて、毎あさ教室で「どこまで読んだ? どういうことを感じた?」と判でおしたようにたずねてきやがって、目次だけよんでほっぽりなげたおれを困らせてくれたうえ、さらにごていねいなことにはそれから三年後にとなり町の総合病院の屋上から飛び降り自殺してくれたのでした。そうしてもちろんおれは、将棋、宗教、自殺、それらを選んだかれらが、いまでも愛しくてしかたない。「おれたちは、ほかのクラスメートたちがしらなかった場所をのぞいてたよな」という矜持さえかんじます。はまってしまった少年のする将棋は、そういう場所だったといまでもおれはしんじます。そういうおれなので、その梅雨のひと時期、まえの席の中村智美の背中に透けてるブラジャーの線を断腸のおもいであきらめて、やすみ時間の将棋の宇宙のほうをとり、やがてはそれにさえあきたらなくなって、おれの家で将棋仲間の三人してA級順位戦および名人戦までしっかりと星取表までつくりあげてやらかしだすようになったのでした。そのころおれが住んでた家には床の間のある部屋がひとつだけあって、また三人という人数がちょうどよくて、対局にふたり、記録係にひとり、「振り駒の結果、先手クリタ八段です。それではお願いいたします(一同フカブカと礼)。パチ。先手、7六歩。パチ。後手、3四歩(以下2キロバイトほど省略)」などなどといったことにそろいもそろって酔いしれるしまつで、それどころか、もちろんほかのクラス、ほかの学年にも将棋バカは何人もいて、そういう連中までが集まってきだすといよいよ事態は末期的で、おしまいには棋譜を三手ずつ別室に報告するかかり(これは後輩)、その別室で継ぎ盤研究をするかかり(これはおもに先輩)までがあらわれました。もしももっと人数がいたらきっと大盤解説をするかかりまであらわれたはずだとおもいます。まともにかんがえて、これじゃあ女の子に相手にしてもらえるわけはない。しかも彼らの髪型にはたいてい、ねぐせがついていました。しかも彼らの学生ズボンは例外なく、てかてかでした。女の子に相手してもらえるわけないでしょう? 相手にしてもらえる要素がなにひとつないでしょう? ところが、そのときのおれが感じてたことといえば「もう、将棋ざんまい、楽しくってしかたない」の一語につきて、その証拠に、時の運がわれに味方してたまたま仲間うちの順位戦で優勝、名人戦の挑戦権をえて栄光の対局室にのぞんだとき、おれは祖父のてろてろの和服をひっぱりだしてきて、それをきこんで盤にむかったのでした。ときの名人は一学年うえの、おれより将棋の格がふたつもみっつもうえのひとで、やがて新聞社主催のアマチュア名人戦の県代表になったし、東京大学にも進学したし、わたしはその先輩には何十局も教わりましたが、とうとう最後まで、一番もいれさせてもらえませんでした。それが、おれの頭のなかに、寝てもさめても将棋盤があった時期です。なんとかして、どんな手段でもいいから、先輩に一矢むくいたい、そうおもいつめたおれがもちいたのが奇襲戦法でした。そのたいせつな名人戦の晴れの舞台に、鬼殺し、筋違い角といった、気高い将棋の美とはまったく反対のところにある邪道戦法をもちいて、その権威を汚してしまいました。勝利への執念がおれにそうさせたのだとはいえ、いまさら悔やんでもとりかえしのつかないことです。けれどそうまでしても、棋力に圧倒的の差のある名人に奇襲はつうずるはずもなく、とくに筋違い角のときにははじまってそうそう、芸術的な王手飛車をきめられて、あっというまに将棋を終わらせてしまった恥辱の棋譜が残っています。観戦していた将棋仲間たちはいちように呆れはて、のちのちまでものわらいのタネにされました。人生の汚点です。消しさりたい歴史はかぎりなくあるおれですが、そのうちでも最大の歴史のひとつであるといってもいいすぎではありません。そのごも名人にはこてんぱんにやられつづけて、あのひとに勝つまではと、おれの将棋熱はますます燃えさかり研究にいそしんだわけですが、さて、そのおれがどうして将棋を投げだしてしまったのかというと、そのころ町民将棋大会があって、それに参加して、その公式戦でおれは、二歩をやりました。ニフです。ニホじゃありません。ニフです。将棋の世界では、有名な禁じ手。有名といってもルールをしらないひとにはわからないでしょうが、そういう反則があるわけです。将棋の常識として、恥ずかしい行為はいくつもありますが、もっとも恥ずかしいのはふたつ、ひとつは王手をうっかりして玉をとられてしまうこと、もうひとつは、そう、二歩です。その二歩禁をおれはおかしました。しかも、じぶんではそれに気づかなくて、そのときの試合の相手は大学生風の、これまたねぐせのついてる髪型ふうのひとだったんですが、おれが二歩をしたあとなかなかつぎの手を指さず、「なんでこんな長考してるんだろう?」とおれがいぶかしみはじめたそのときに、とんとん、と、将棋盤の、おれの歩がふたつある筋をたたいて、それから、無言でおれの顔をみあげました。「ねえきみ、ここ、これ、わかってる?」というふうに。気づいたとき、おれは、全身の血が逆流しました。おれは「すみませんでした」と謝って、恥ずかしさでその場所にいられず、席をたって、そのまま家に帰りました。十三歳という、もっとも盤のうえがみわたせる年齢に二歩をしてしまったら、将棋じんせいはそこでおわりです。おれは、じぶんの才能のなさをそこでいたいほど感じとり、たぶん必要以上に感じとり、それで将棋熱がいっぺんにさめました。一晩ねたらけろりと風邪がなおってしまったみたいに。ほんとうのところ、自我がつよいとしごろだったので、二歩の件があまりにみじめで、将棋の駒をみただけでドキっとしてしまって、将棋を指せなくなってしまった。そうしておれは、いままで将棋のかげにかくれていたもうひとりのおのれのいうところにしたがって将棋をうっちゃって、そう、授業中に頭のなかの将棋盤の駒を動かしたりはせずに、そのかわりにまえの席の中村智美のブラジャーのホックをはずして彼女とじゃれあうことに興味をみいだすようになっていったのでした。
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