とり  がんばりましょう

 どうしてあんなに女子中学生がすきだったんだろうとおもう。中学生のころだ。あたりまえといえばあたりまえなんだけど、おれはそのころ、女子中学生がだいすきだった。小学生のころはもちろん小学生がすきで、高校生のときは高校生の女の子がすきだった。そうして、たとえば中学生のころ、三十代の女性なんて、夢にもおもわない存在だった。なんの夢かときかれてもこまる。ともかく、三十歳の女のひとに魅力をかんじるなんて、中学生のときのおれにはかんがえられないことだった。ところがいま、こうして三十歳をすぎたいま、三十歳くらいの女性をみて「あれくらいがちょうどいいよなあ」と実感する。なにがちょうどいいのかときかれてもこまる。とにかく、ちょうどいいのだ。そうしてぎゃくに、中学生や高校生の女の子のほうが、夢にもおもわない存在だったりする。だから、なんの夢かときかれてもこまる。ともかくおもわないのだ。こういうのもやはり、バージョンアップというのだろうか? もしそういうのだとしたら、ひとまず順調におれはバージョンアップをかさねているようにおもう。フシギなもんだなあとおもう。せいしん面からいうと、じつをいうと、おれはちっとも成長してないんじゃないかとつねづねおもっている。ここでこうしてかきなぐっとる、この作文がよい例で、中学生のころからなんにもかわらない。たとえば中学生のころにかいた夏休みの日記かなにかをここにアップロードしても、なんの違和感もなくほかの作文とまざるんじゃないかという気はひじょうにする。男子たるもの三日もあわなかったらどうたらこうたらいうけど、おれのばあいは、三十年たっても五十年たってもかわらないんじゃないかという気はひじょうにする。「それでいいのかっ?」ときびしくだれかに問われたら、かなり動揺しちゃうかもしれないが、でもかわらないんだからしょうがない。これでいいのだ、とおれはひらきなおるしかない。しかし、そんなふうになんの成長もないまま、ただのんべんだらりんと日々をすごしておるのかとおもいきや、意外なところでバージョンアップをしているじぶんに気がついて、けっこう感心する。
 いま、おれがおもうのは、じぶんがたとえば五十歳になったとき、やっぱり五十歳の女性をみて「これくらいがちょうどいいなあ」とおもんだろうか、八十歳になったときは八十歳のひとに「これくらいだのう」とおもうんだろうかということだ。そこまで順調にバージョンアップをかさねていけるんだろうか? これはちょっとしんじられない。さすがに、いまのおれにとっては八十歳の女のひとは夢のまた夢だ。くどいようだが、なんの夢かときかれてもこまる。ともかく夢のほかだ。虹のかなただ。だから、ほんとうにそんな日がくるとは、いまのところ、とてもおもえない。でも、こればかりは、その日がきてみないことにはわからない。たとえばおれがいま、時間をとびこえて、中学生のころのおれにあいにいけたとして、中学生のおれにむかって「おまえもね、三十すぎたら三十歳の女のひとに魅力をかんじるようになるんだよ」といいきかせても、きっと中学生のおれは「うっそだあ、そんなのとてもしんじられん。虹のかなただよう。ぽいうぽいう」というだろう。それとおなじで、いまのおれにはしんじられなくても、ほんとうに八十になったら八十の女のひとがよくなるのかもしれない。
 ただ、そこまで順調にバージョンアップをかさねるのも、ちょっとどうかなという気はする。ちょっとしんどいよなあ、とひるんだりもする。いったいおれは、どこまでバージョンアップしなければならないのか。『病気です。きっと、九十五歳くらいになればすこしはおさまるのではないかとおもいます。そう信じて、おたがいがんばりましょう。』

 がんばりましょう。

[24,11,1999]