[2000年6月25日] 生板
肉だんご汁。めし。(夕)

 ヘンな読み方をする漢字というのがある。もしかしたらヘンだとはおもわないひともいるのかもしれない。でもおれはヘンだとおもう。たとえばうちのほうの地名に「大角豆」というのがあって、これなんかは「ささぎ」と読む。なんだよそれ。さぎじゃないのか。どこをどう読みまちがえればそうなるんだよ。そうおもわないわけにはいかない。こういう漢字はもういくらでもあって、しらないとぜったいにそうは読めなくて、正解をしるたびに「そんなのありか?」とあぜんとさせられ、さらにぶぜんとさせられる。腹がたちさえする。でも、あまりにもこういうふざけた漢字というのが多いことをしると、そのうちだんだんこっちも慣れてきて、やがてどうでもよくなる。とどのつまり、ようするに、デタラメなのだ。デタラメといういいかたがわるければ、インチキなのだ。インチキといういいかたがわるいなら、世間をなめてるのだ。なめてるといういいかたがわるければ、きりがないのでいいかげんにするけど、とにかく、こういう漢字にたいしては、まともにつきあおうとすると疲れるだけなのだ。相手にしないほうがいいのだ。あいつらはそういうやつらなのだ。ほっとくしかないのだ。と、そんなふうに許し、受け入れるのがおとなになるということなのだ、とおれはおもう。たんにナゲヤリなだけだというみかたもあるけど。
 しかし、そんなナゲヤリなおれにも、どうしてもこれだけは譲れない、譲りたくないという漢字がある。それが「生板」だ。これにはよく「ショー」がくっついて「生板ショー」と表記されたりする。というか、これいがいではまずみかけない。「生板ショー」。そう表記された看板が、まちの電柱にくくりつけられているのをときどきみかける。もしかしたらこれはウチのほうだけのものなのかもしれないが、でもとにかく、ウチのほうではそういう看板がある。いったいこの生板ショーがどんなショーなのかというと、これにかんしてはおれもあまりよくしらない。気になるひとは、そういうのがすきそうなひとにたずねてください。そういうのはどういうのかというと、ほら、そういう、なんだか気もちのよさそうなショーです。そういうショーがすきなひとに聞いてください。とにかくいまおれが述べようとしているのは、生板ショーの詳細ではなくて、その読み方についてだ。生板。これが、なんと読むかというと「まないた」なのだ。「生板」とかいて「まないた」。「生板ショー」とかいて「まないたショー」。これは、いくらなんでもあんまりなんじゃないかとおれはおもう。ひとをおちょくるにもホドがある。「生板」とかいたら、これはどうみても「なまいた」であって、だんじて「まないた」ではない。マナー違反にもホドがある。これを許せるようになったらおれも一人前のおとななのかもしれないけど、でも、やっぱり許せない。許したくない。これを認めてしまったら人間オワリなんじゃないかという気さえする。おとなになんてならなくてもいい。おれは許さない。たしかに「マナ板ショー」と記すよりは「生板ショー」と表記したほうが、そそられるモノはある。気もちよさそうではある。それはみとめる。でも、気もちよければなんでもいいのか? それがすべてなのか、おまえのじんせいは? そんなこっていいのか? そんなこって立派な盲導犬になれるのか?
 なにをいきなり生板生板いいだしたのかというと、じつはおれのすむ町のとなり町にそういう地名があって、おれのイトコがそこにすんでいる。生粋の生板住民だ。しかももちろんこの生板も「まないた」と読む。こないだこのイトコがあそびにきてふたりで生ビールをのみながら、ふといぜんからこの生板問題についてなっとくのいかないものを感じていたのをおもいだしておれは、かれに詰問してみた。生板生住民のイトコよ、きみはそんな土地にすんでいるじぶんが許せるのか。この読み方は、道にはずれているとはおもわないか、どうなんだ生板生住民よ。そんなふうにつめよると「ああ、そりゃどっちでもいいんだ、マナイタでもナマイタでも、地元じゃどっちでも通じるんだ」と生返事をされてしまった。そ、そんな‥。

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