[2000年11月9日] カタ屋とわしら
菓子パン(あさ)
ころっけ定食(ひる)
洋食。ビール(ゆう)

 こどものころ暮らしていた家のちかくに神社があって、境内にはけやきの古木がおいしげっているような、どこにでもみかけるような神社なんだけど、そこにみせをひろげて子供相手にいんちきな商いをしていたカタ屋というのがいた。よその土地でどうよばれていたのかはしらないが、おれたちはその商いおよびそれをいとなむおやじをカタ屋とよんでいた。みせといっても神社の境内をたぶん無断借用してひろげた露天のもので、二週間ばかりあきなってはどこかへ去っていく。カタ屋がおれたちのまちにあらわれるのは年にいちど、四月の中旬で、カタ屋があらわれると、その情報はただちに町内の子供たちにひろまり、みんなが神社に集結する。小学生がその中心である。あつまった子供たちはまずカタ屋のおやじから「カタ」を買う。素焼きの長方形をした土器である。そのおおきさは、一辺が10センチにもみたないようなものから50センチはあるとおもわれるものまでさまざまである。あつさも5センチくらいあって、おおきいやつはどっしりとした重みがある。カタには絵が彫ってある。鉄人28号だとか、軍艦だとか、これもさまざまである。そこにカタ屋のおやじから購入した粘土というか、田んぼのどろみたいな土をあてはめる。そうっとカタからはずすと、鉄人や軍艦のカタチが粘土にあらわれる。そこで、さらにカタ屋のおやじから購入した金や銀や赤や青の色の粉を、じぶんの美意識の信ずるままに塗りたくる。そうするうちに、ただの粘土のかたまりがやがて美しい芸術作品に変わってゆく。完成した作品は、さっそくカタ屋のおやじのところにもっていき、評価をしてもらう。おやじはそれを一瞬だけみて(ほんとにちらっとしかみない)、作品をぐにゃっと丸めたのち、点数の書いてある紙をくれる。この点数を集めると、巨大なカタがもらえるのだ。巨大なカタはおやじのまわりに陳列されていて、そこには気の遠くなるような点数がつけられていて、それがカタ屋のおやじの権力の象徴なのであった。おれたちは、あこがれの巨大なカタを手にいれるため、まい日けんめいに粘土をこねくりまわし、色を塗りたくる。おれたちにそれをさせるおもな原動力は射幸心である。子供相手の商売といえばむかしから射幸心にうったえかけるものと相場がきまっている。大人相手の商売にもそういうのはたくさんあるけど。とにかく、カタ屋ビジネスは、そういう仕組みのもとに機能していた。そうやっておれたちがつくりあげた作品の評価は、カタ屋のおやじの胸のうちひとつにゆだねられている。ポイントはそこにある。それから、作品をつくりあげるための材料はすべてカタ屋から購入するしかない。ここにポイントがもうひとつある。つまり、われわれはそもそもカタ屋のおやじのおもうがままというか、ようするに圧倒的なまでのカタ屋の独裁体制のなかにあるわけである。たとえばカタにあてはめる粘土だが、これは何度も使いまわしているとねばり気をうしなって、かさかさになってくる。カタにはめてもひびわれてしまったりして、うまく色がのらなくなってくる。そういう作品をカタ屋のおやじのところにもってゆくと「この粘土はいかん」などとけちをつけられ、ちんけな点数しかもらえない。また、色がすくなかったりするのもいかんのである。色の粉をふんだんに、惜しげもなく何色も何色も使ってないと、やっぱりよい点数はつけてくれんのである。それでおれたちもしかたなくあたらしい粘土を購入し、値段のはる金や銀の色粉を購入し、カタにはめ、色を塗りたくり、そうやってちまちまと点数をためてゆくのだが、しかし、なにしろいちばんひでえなあと思うのは、おれたちがつめに火をともすようにしてコツコツとためた点数がそろそろ景品の立派なカタに届くようになってきた、というころになると、カタ屋のおやじはとっとと店をたたんでどっかに消えてしまうんである。ほんとうに、コツゼンと消えてしまうのである。おれたちはカタ屋のきえた境内にボウゼンとたちすくみ、たんなる紙くずと化した点数券をにぎりしめ、「そりゃあんまりだっぺ」とつぶやくわけである。つぶやくおれたちのうえを、ひゅるるーと風が吹いたりするわけである。そこにいたっておれたちははじめて、カタ屋のおやじにしてやられたことに気がつく。おやじは最初から、景品のカタをおれたちにくれるつもりなんてなかったのだ。そのことに思いあたり「くそー、ガキだとおもっておれたちのことをなめてんなてめー」と三日くらいは怒りくるうのだが、そこはそれやはりたんなるバカガキなので、しばらくするまにそんなことは忘れてしまう。一年もするとすっかり忘却の彼方である。そしてほとぼりがさめたころになると、またカタ屋のおやじが神社にやってくる。そのへんのタイミングはもう感心するしかないくらい、じつにたくみで、そしておれたちは、一年まえにうまくたばかられたことなどすっかり忘れてまたぞろこりもせず、カタ屋がよいをはじめ、そしてまたきっちりとカタにはめられてしまうのであった。

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