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きょうでおぼんやすみもおわり。は〜。ゆううつである。しかしいまさらジタバタしてもしょうがないので、のんびりとすごしてる。空には夏の雲がもくもくとたてにながくのびて、きれいだなあとおもう。あの雲のしたにはなにがあるんだろう、っていうのはなんどとなくきかされたいいまわしだけど、たしかにそうおもうことってある。あの雲のしたにはなにがあるんだろう。いまではもう、どうせあの雲のしたにはこことおなじ、田んぼがあるばかりだとしっているからそうでもないけど、子どものころはそうかんがえるとわくわくした。そのころ、まだおとなたちの股ぐらのあたりまでしか背丈がなかったころ、おれの行動範囲はせまくて、せいぜいじぶんの家から五十歩もあるいたところまでにかぎられていて、それからじっくりと時間をかけてすこしずつ六十歩、七十歩、というふうにじぶんの世界をひろげていった。おれの家から百歩ばかりいったところに国道があって、とうじのおれには巨大な山みたいにみえるトラックがびゅんびゅんとはしっていて、それはながいこと我がくにの領土の北の境界線だった。ちいさなおれにはこわくてその道がわたれなかったのだ。ドナウ川をまえにした西ゴート族のように、おれは道をまえにして、指をくわえてむこうをみるばかりだった。そこには川の土手があった。えんえんとつづく川の土手と、そのうえにひろがる空にうかんだ雲をみあげて、あの雲のしたにはなにがあるのだろう、どんな風景がひろがっているんだろう、どんなひとがいるんだろう、とかんがえた。まだじんせいははじまってはおらず、雲のしたになにがあるのかはしらず、ただじぶんはいつか、この土手をこえてあの雲のしたの世界をみるのだ、という確信にちいさなむねをわくわくさせていた。『坂の上の雲』っていう本があって、明治時代のひとたちはあの雲のしたになにがあるんだろうとおもいながら空をみあげて坂をのぼっていたようなものだよっていう、たしかそんなふうなタイトルについての説明があって、ちょっと感心する。坂のむこうになにがあるのかはみえない。でもそのうえには雲がうかんでて、あの雲のしたにはだれかがいる。そうかんがえて、胸をときめかせてたあのころ。きょうの空にうかんだ雲はあのころとかわらない。でもそのしたのおれはずいぶんかわってしまって、あの日からもう何千キロもはなれた場所にいるような気がする。そしてちょっとばかりゆううつをもてあましてる。
●余談:んなわけでげんざい「ぽいうダーティーイメージ払拭キャンペーン」実施中です。なん回めだかわすれたけど。とにかく実施中なのでみなのしうのあたたかいご支援をナニトゾおねがいします。たのむよ。ぽいう。
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