[2002年08月10日] 意志と表象としての世界

 しらずしらずのうちにわれわれはひとつのおおきな伝言ゲームをしている。伝言をつたえるのはクラスメートであり、あるいはおとなりのおくさんであり、そしてあるいはわれわれのつぎの世代のこどもたちである。クラスメートはつぎのクラスメートへ、おとなりのおくさんはつぎのおとなりのおくさんへ、つぎの世代のこどもたちはそのつぎの世代のこどもたちへ、われわれは伝言をつぎつぎとつたえて、そうやってじんるいは文明をきずきあげてきた。けれども、伝言ゲームの情報というのは、劣化していくものである。伝言ゲームにおける真実は、まるでてのひらにくまれた水のようだ。ひとびとはそれをてのひらからてのひらへ、てわたしていく。わたされるたびに水は指のすきまからこぼれてゆく。かわいそうなおしまいのほうのひとたちは、かわいた手をみつめて、ただ呆然とすることになる。それが伝言ゲームの情報だ。そして、だからわれわれは、紙にかいてきたのだ。そのためにわれわれは、そういう記録のやりかたを発明したのだ。紙に記録された情報のすぐれた点は、それがなにかに中継されることなく、ダイレクトに受け手にとどくというところだ。あいだにはなにもない。本のページをひろげれば、そこには、くまれたままの水がのこっている。真実の水だ。真実をたたえかすかにふるえる水。二百年たっても三百年たってもつねにそのままにあって、だれかがひろげるのをしずかにまっている。本。それはじんるいの神聖な智恵だ。そのことばをはっするときにおれがかんじる胸のたかなりは、わずかだけれどもはっきりとかんじるそのおもいは、きっとそこからきているのだとおもう。というわけで、おれの本棚にならんだそんな書物をひとつ。ショーペンハウエル著、『意志と表象としての世界』。この本をおれがてにしたのは二十歳のときだった。とうじの女ともだちに妹がいて、そいつはそのころ私立の女子校にかよっていて、おそろしくトロいやつだった。「あたしのあたまのなかはおまんこのことでいっぱいなの」とくちばしるのをきいたことがある。トロいやつだった。そのことは本人も気にやんでいたらしく、どうしたらあたまがよくなれるのだろうとかんがえて、それにはむずかしそうな本をよめばいいとおもいついて、本屋にいってこの本をかってきた、といった。けれども本はあんのじょういちどもひらかれることがなく、かといって家族のだれがよむわけでもないし、だからくりたさんにあげる、とある日そいつはおれにこの本をくれた。あたまはトロいが気のやさしいいいやつだった。それから二十年、『意志と表象としての世界』はあいかわらずいちどもひらかれることのないまま、手にとられることさえないまま、おれの本棚にならびつづけている。ドイツの哲学者が表明した真実はかたちをかえず、表明されたときの姿のままでおれの本棚にならんでいて、たぶんこれからもひらかれないままにならびつづける。そういうさだめの真実も、この意志と表象としての世界にはある。

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