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ここだけの話ですが僕の配偶者はそうとうにいぎたないひとです。よくねます。それはもうよくねます。それはべつにかまわないんですが、こまるのは、おこしてもおきないことです。いや、いちおうはおきるんです。おきるのかな。ていうか、そもそもさいしょにおきるのは僕です。配偶者がおきたい時刻にめざましをかけることがあります。めざまし時計は電波時計です。一日に12回も電波を受信して誤差を修正してくれるというスグレモノです。ここさいきんの発明のなかでもっともありがたいモノのひとつだと僕なんかはおもうんですけど、配偶者はこのありがたさにちっとも理解をしめさず、そんなの五分くらいすすんでようがおくれてようが大差ないんだからなんだっていいだろ、とうそぶいて、なかなかうちには導入されませんでした。僕が哀願してやっとかってもらったほどです。電波時計、僕はだいすきです。これこそ文明です。でも配偶者はちっともすきじゃないみたいです。すきとかきらいとかではなく、ねうちがわからないみたいです。価値観の相違というやつです。この相違については、僕はなんどかおどろかされました。僕は、僕たちが結婚するまえに、新幹線にのりおくれたことがあります。そのころ配偶者は大阪に在住していて、関東から僕があそびにいったときに、かえりの新幹線の出発時刻をつたえて、あとはまかせておけば間に合うようにうまく駅につれていってもらえるだろうとたかをくくっていました。甘かったです。そのころ僕は彼女がわかっていませんでした。それこそ電波時計ではかったかのような、すばらしくギリのタイミングで新幹線に乗り遅れました。新大阪の駅のプラットホームの階段を全力疾走でかけあがり、新幹線のドアの二歩手前くらいでドアがプシューっとしまる、というテレビドラマみたいな貴重な体験をさせてもらいました。それいらい、大阪にいったさいはかえりの電車の時刻の心配はじぶんでするようになったのはいうまでもありません。でも話はこれだけではすみません。いちばんたまげたのは、飛行機に乗り遅れたことです。結婚直後に配偶者の実家のほうに飛行機でかえったときに、僕もまだ配偶者のことをそこまでとはおもっておらず、飛行機の出発時刻についてまかせっきりにしていたのですが、おもいきり乗り遅れました。とっくのとうに飛行機は離陸してしまったというのにわれわれはそんなこととはつゆしらず、羽田の飛行場のなかをぷらぷらしておみやげはなににしようかなどとノウテンキに話しあったりしてました。そりゃびっくりしましたよ。飛行機がすでに飛びさったあとだとしったときは。恥ずかしかったですよ。あんなに場内放送をかけたのにきてくれなかったじゃないですかと係員にしかられたときは。さすがにこのとき僕は、さとりました。つまり配偶者は、そういうひとなのだと。ある意味すごいとおもいます。勇気があるんです。僕にはそんな勇気はありません。尊敬します。しかもやがて配偶者のおねえさんから、配偶者のその手の武勇伝をいくつかきかされるにおよんでいよいよその尊敬の念はつよまりました。なんていうか、うまくいけませんけど、配偶者は、そういうひとなんです。だから、めざまし時計でおきるなんて、そんなことは彼女にはありえません。いや、いちおうはおきてるというか、めざましをとめたりはできるみたいです。セットした時間にめざましの音がなりだすと、フトンからよれよれと手をのばし、快適な睡眠を阻害するそのやかましい音をとめたりはします。でも、どうもあれはおきてるわけじゃないみたいで、無意識でやってるみたいです。その証拠に、めざましのスイッチをおして音をとめた、つぎの呼吸はすでに寝息です。手をめざましのうえにのばしたまま、ねています。戦場でたおれた兵士のように。このポオズはいったいなんのつもりなのか、と配偶者をめのまえにして僕はなやみます。よくわかりません。僕はめざまし時計をセットすると、セットした五分まえくらいに勝手に目がさめてしまうというタイプのにんげんなので、彼女の行為は意味がわかりかねるのです。ともかく、めざましをかけていたいじょうはその時間におきようとほっしていたのであろうと推測されるので、いちおう僕はよこからそっと手をのばし、ぽんぽん、と肩のあたりをたたいて「おきないのかい?」とたずねてみるのです。遠慮がちに。すると、何語だかわからない、それいぜんにそもそも人語とはおもえないもにゃもにゃした音をのどの奥からもらし、配偶者はねむりにつきます。音のニュアンスからさっするに、つまり、ねていたいということなのだろうと僕は解釈して、そのままねむらせます。怒られるのは、それから数時間後、配偶者が本格的にめざめたあとです。それはたいてい、セットしためざましをとめたのはだれか、という犯人追求からはじまります。きみがとめたんだよ、と僕が指摘すると、なぜわかるのだ、ときかれます。みていたからだ、とこたえると、みていたのならなぜおこしてくれなかったのだ、となじられます。おこしたよ、なんども、とこたえると、わたしがおきなかったいじょうはそれはおこしていないのだ、なんて役にたたないやつなのだ、とさらになじられます。すごいです。リクツもへったくれもありません。あまりの無法ぶりにかえって感動さえおぼえるほどです。そんなにあとになって僕をなじったり後悔したりするのなら、めざましがなった時点でおきりゃいいのに、と僕はおもいます。ばかだなあ、とおもいます。そしてたぶん、それが僕が彼女をすきな理由なのだろう、と僕はおもいます。
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