[2005年06月03日] タイトルさえおもいつきません

 詩をかくというのは、ある精神状態を持続させることであり、いまのおれにそれがむずかしいのは、おれには外の世界があるからである。詩の外の世界である。たとえばおれには会社というものがあって、げんざいそこでおれはメダカをかぞえる仕事をしている。テトラカウント課。それがおれの所属している部署の名称だ。おれの会社の正面玄関をはいったすぐのところに熱帯魚の水槽があって、そこには100匹をこえる熱帯メダカがいる。それを数える。容易なことではない。やつらはひとつところにとどまってじっとしていることができないいきものである。あさの九時からゆうがたの五時まで、おれはこいつらを数えつづける。なんどだっていうが、容易なことではない。神経をすりへらし、へとへとに疲弊する。こんな状態でいえにかえったところで、どうして詩がかけるだろう。ぬくぬくした自宅のキッチンのテーブルに原稿用紙とエンピツを用意して、世界を表現する一行を発見するためにきもちを統一したとして、その精神状態を二週間も三週間も持続させるのは不可能だ。そういうことをさせてもらえたなら、もしかしたら、その一行がみつかるのかもしれない、けれどもある晩にそのきれはしをつかんだ気がしたとしても、よくあさには会社にいかなくちゃならない。メダカをみつめなくちゃならない。そこでおれはすっかりと気もちをきりかえることになって、まえの晩になにをかこうとしていたものか、内容はおぼえていられても、きもちをとりもどすのが困難になっている。おれはいま、同人誌で発表するための詩を、原稿用紙で二十枚ぶんの詩をかこうとしている。『季刊赤オーラ大』という詩の同人誌で、そこの同人にむとうさんというとしごろのむすめがいる。おれはむとうさんがすきだ。おれはむとうさんをたらしこみたい。おれはむとうさんと夫婦になりたい。それがむりでもいっかいはやらしてもらいたい。それがむりでもいちどはおっぱいをなぜさしてもらいたい。そういった動機でおれは『季刊赤オーラ大』の同人になった。ここでだれもがどぎもをぬかす詩を発表して、みなの尊敬をあつめ、そうしてむとうさんをくどく予定だ。だがその詩がかけない。かんじんかなめの詩がかけない。どうしてかけるというのだ。こんなにへとへとにくたびれて。いまのおれに必要なのは安寧だ。やすらぎだ。ひらたくいうと睡眠だ。それをけずって明け方ちかくまで原稿用紙と格闘をし、夜があければ会社にいってメダカを数える。睡眠不足の充血した目をこすってメダカを数える。ちかごろでは目がぐるぐるとまわってちっともはかどらない。それでも数える。いよいよ目がまわる。目をまわしたままゆうがたになればいえにかえり、原稿用紙のまえでうなる。なんにもでてこない。睡眠だ。睡眠が必要なのだ。だがねむっているひまはない。締め切りがちかい。メダカも、詩も、むとうさんも、どれもが絶望だ。苦しい。こんなに苦しんでも原稿用紙は白紙のままだ。表題さえうかばない。なにもでてこない。おれのじんせいは忘れられた詩人の忘れられた一行だ。いや、詩人になれさえしなかった男のだれにもきかれなかったつぶやきだ。無為だ。徒労だ。消耗だ。締め切りがちかい。ああむとうさん。あなたがすきだ。

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