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P.K.ディックを浜辺で読むのがすきで、おかげでおれがもっているディックの本のページはほとんどが日にやけてしわしわになっている。なん年まえだったか、グァムへいったときも、目的は浜辺でディックを読むことだった。「グァムへ、ひとりでいくの? ひとりで? なにしに?」とたずねられた。クルマにひかれて道路でぼろぼろになっている猫の死骸をみるようなめつきだった。だが、ひとりで南の島へ旅行するのも、そんなにわるいものじゃない。息抜きの旅行ならひとりがいちばんいい。南の島なら日々の生活でぐちゃぐちゃにからみあってしまったおれの全身の神経をそうっとていねいにほぐしてくれそうだと考えた。三月のなかごろだ。おれはとつぜん、なにもかもあらゆることがめんどうくさくなった。するべき予定だった仕事をすべてことわった。その下旬にはもうひとりでグァムにきていた。グァムでなければならない理由はどこにもなかった。いますぐにでもどこか南の島へいきたいんだというおれの要求に対して旅行代理店の女の子がおれにすすめたのがグァムだった。そしておれはグァムにきた。浜辺にねころがって、ディックの本をひろげた。てはじめに読んだのは『火星のタイムスリップ』だった。木陰にすわりこんで本にめをやると、それでも日差しが強くてベージがしろくひかっている。サングラスを忘れてきたことを後悔した。ホテルへもどった。現地人らしい太った女性の店員のすすめにしたがってレイバンのサングラスを買った。その場でそれをかけてふたたび浜辺へおりた。ビールを買ってひとくちのんだ。煙草に火をつけた。『火星のタイムスリップ』をひろげた。それを読むのはもう三度めくらいだった。それでもディックはあっというまにいつものディックのあの悪い夢の世界へおれをつれていってくれた。ディックの本を読むということは、特殊な体験をするということだ。ディックはおおきな両手でおれの両肩をがっちりとつかみ、それまでおれがしらなかった、不確かで不安な悪い世界へおれをつれていってしまう。おれはなんと不確かで不安な悪い世界にいるのだろうとおもう。あらゆるものがあやふやで、信じられるものなんてなにひとつない。ディックはいつもそういう世界をえがく。そういう物語を読みながら、ときどき顔をあげると、おれのめのまえには南の島の海があった。透明な水のしずかな波がしろい砂にうちよせている。白人の子供たちが波うちぎわではしゃいでいる。とおくの浜辺に小屋があって、バンドがAC/DCの曲を演奏している。文明の国から南の島の海へでかけた者ならだれもが考えることをおれも考えた。ディックの本と南の島の海の対比で空想と現実をいったりきたりするのをたのしんだ。日のあるあいだは浜辺でディックの本を読んですごした。飽きると退屈そうにしている日本人の女の子に話しかけて時間をつぶした。グァムには三種類の人間しかいない。東洋人とアメリカ人と現地人だ。東洋人にはさらに日本人と韓国人と台湾人がいて、アメリカ人には兵隊と観光客とがいる。おれのまえをとおりすぎるアメリカ人の観光客にほほえみかけると、だれもがほほえみかえしてくれた。東洋人に対してはおたがいにそしらぬそぶりをした。ビキニの海水パンツをはいた、信じられないほど美しい肉体をもった小柄な黒人がいて浜辺のあちらこちらをうろうろしていた。あいつはなにをしているんだろうとおれはいぶかしんだ。あとになってわかったのだが、かれはその夜にセックスをさせてくれる日本人の女の子をさがしていたのだ。そしてほとんど毎晩、その日にしりあった日本人の女の子とディスコへいき、そのあとにセックスをしているという話だった。夕暮れになった。太陽が海にのみこまれてゆくようすを眺めた。ビールをのみほした。うしろで嬌声がきこえた。関西弁を話すふたりの女の子と現地人の数人の若い男たちがバーベキューをはじめたのだ。巨大な肉塊を両手でかかえる男と視線があった。ほほえみかけた。男はおれの目をみすえたまま砂浜に唾をはいた。敵意があった。
夜はひとりで簡単に食事をすませた。ややはなれた浜辺の、ひるまバンドの演奏が聴こえていた小屋へでかけた。そこは若いアメリカの兵隊たちがビールをのみながら音楽を聴いたりテレビのフットボール中継をながめたりしている場所だった。カウンターのなかの男にビールを注文した。それを片手にテーブルについた。ドアも壁もない草ぶきの小屋なので演奏はすべて屋外へとはなたれていた。アメリカ兵のなかにひどく酔っている連中がいて、そのようすとバンドの演奏を交互にながめた。曲のあいまに波の音がきこえた。海からふいてくる風に気がついた。じぶんが南の島にきていることを確認した。それでも、兵隊のあつまる場所は、兵隊ではない人間にとってはいごこちが悪かった。演奏がひととおりおわるとおれはすぐにホテルにもどった。するべきことはなにもなかった。海を眺望できるバルコニーのデッキチェアーに腰をおろした。夜の海を眺めた。またビールをのんだ。ホテルは崖のうえに建てられていた。崖の下から関西弁の女の子のはしゃぐ声が聞こえた。まだバーベキューがつづいているらしい。やれやれとおもった。背後から声をかけられた。ふたりの女の子がたっていた。髪の長いのと、髪の短いのとがいた。写真をとってほしい、と髪の短いほうがいった。バルコニーの植物を背景に五枚ほど写真をとってあげた。彼女たちはそれからおれの隣のテーブルに腰をおろした。なにか話さなければならなくなった。彼女たちは姉妹で、髪の短いほうが姉で髪の長いほうが妹だった。大学生と高校生の姉妹で、学校が休みになったのを利用して旅行にきているのだといった。わるいくせで、両方ともいっぺんにセックスはできないものだろうか、とおれは考えた。そういうふうにもっていくにはどうしたらいいかと思案をめぐらせた。十五分か三十分か、話しこんでいると、通路のむこうのほうからおれたちをみつめている視線に気がついた。しらぬふりをして彼女たちと話をつづけたが、視線はおれたちをみつめつづけていた。やがて妹のほうが、あのひとはどうしてずうっとこちらをみているのかしら、といった。それでおれたち三人がその方向をみやると、その人間はこちらにむかって歩きだした。日にやけて色のあせたアロハシャツを着た現地人らしき男だった。巨人といっていい。身長は2メートルちかくありそうだった。体重も100キロはかるくこしていて、130キロとか、160キロとか、それくらいありそうだった。100キロをこえた人間の体重はみただけではおれにはけんとうがつかない。その体格におれたちは圧倒された。沈黙したままで男をみあげていると、男はアメリカふうの英語で「あんたたちは日本人か」といった。そうだ、とうなずくと「日本語をおぼえたいのだが、教えてくれないだろうか」といった。恐怖をかんじた。女の子たちもすっかりおびえていた。なにか悪いことが起こりはじめている気がした。ディックの本を読んでいたせいかもしれない。どうしようか、と女の子たちにたずねると、このひとはいまなんといったのかと逆にたずねられた。女の子たちは男のいったことがわからないようだった。日本語を教えてくれといっている、とつたえると、どうしてかしら、どうしよう、こわい、と彼女たちはとまどった。そこで男は、この六月におれは日本にいくので日本語や日本に関することをなるべく多くしっておきたいのだ、といった。おれはその言葉を信じなかった。男はなにか目的があっておれたちに話しかけているのだとおれは考えた。だが、その目的がなにかはわからなかった。女の子たちがあまりにおびえているので、おれは彼女たちにこわがることはないといい、どんな種類の情報をしりたいのかと男にたずねた。なんでもいいんだ、たとえば東京はどんなところだと男はいった。東京はすきじゃない、とおれはこたえた。なぜだ、と男。なぜなら、すべての大都市はおなじである、とおれはいった。高層建築物、交通渋滞、悪い空気、騒音、建築、破壊、群衆、群衆、群衆、あんたはそれがすきか、おれはそれがすきではない、といった。男はすこしわらった。そして、あんたは韓国人か、とおれにたずねた。この女の子たちは日本人にみえるが、あんたは韓国人におもえる、といった。もちろん違う、とおれがこたえると、もちろん、というところの真似をして男は愉快そうにわらった。男にとっては韓国人も日本人もにたようなものだったのかもしれない。それなのにおれが日本人だと主張するのがおかしかったのかもしれない。それでも、男がわらったのをみて女の子たちはすこし安心したようにみえた。男はさらに、なにか日本について教えろといった。日本の昔話でもいいか、とたずねた。すばらしい、と男がいった。それでおれは話しはじめた。昔々、江戸の町に掘に沿った道がありました。夜になると人々はそこから離れていました。なぜならそこにはムジナが住んでいたからなのでした。こんどは女の子たちがわらう番だった。彼女たちもこの話をしっていた。小泉八雲のムジナは、プリンスという英語の教科書をつかう学校では中学二年のときに教わることになっている。おれは学校でこの話をすべて暗記させられた。十年以上がすぎたそのときもまだ暗記していた。へえ、じゃあ彼女の顔は、こんなだったかい、そのとき明かりが消えました、おれが最後までしゃべり終えると、彼女たちは拍手をした。男はあいまいなほほえみを浮かべた。女の子たちがリラックスしはじめたことに気をよくしたらしかった。さらにしばらく話をつづけると、おれたちのあいだには、はじめにくらべればかなりましな雰囲気ができあがっていた。あんたたちは信じていないようだが、おれはほんとうに六月に日本へいくんだ、と男はたどたどしい日本語で話しはじめた。おれたちが驚くと、だますつもりはなかったんだが、おれはちょっと日本語がわかるんだといった。おれはビーチでシースポーツの道具をレンタルしてる、そこには日本人の客がよくくるから日本語もすこしわかる、といった。それに、日本にはまえにもいったことがあるんだよ、フットボールの試合でね、とつづけた。そのときおれに直感がはたらいた。それはカレッジフットボールか、とたずねた。そうだ、と男がいうので、あんたはハワイアンではないかとたずねた。そのとおりだ、と男はこたえ、どうしてそれがわかったんだい、といった。あんたの英語は、ここのひとたちの話す英語とちがう、とおれはこたえた。それにおれは、それより数年まえに横浜スタジアムでハワイ大学のフットボールチームが試合をしたことをおぼえていた。おれがその試合をおぼえていたことは男を感心させた。男はそれをしっておれに対して親密になった。あんたは日本の相撲レスラーみたいだよ、という冗談さえいうことができた。小錦とおれはおなじ島の出身だよ、と男はいった。おしまいに男は、これからみんなでおれのクルマで遊びにでかけよう、と提案してきた。もうすっかり夜もふけていた。どうしますか、と女の子たちにたずねたとき、浜辺から怒声がきこえた。トラブルがあったらしい。あれはなんだ、と男にたずねると、喧嘩がはじまったのさ、といった。兵隊があつまるバーが浜にあって、この時間になると酔った連中が喧嘩をはじめる、喧嘩になると浜へおいだされるんだ、しょっちゅうあるんだ、といった。しばらくまえにおれがビールをのんだ店のことだった。みんながたのしんでいるときに暴れ出す、そういうやつらはいつもおなじ連中で、みんなから嫌われている、と男はいった。おれたちはバルコニーから目をこらして、浜のようすをながめた。怒号がきこえるばかりでなにもみえなかった。あの場所にとどまらないでいたことをおれは幸運だとおもった。しばらくすると騒ぎはおさまった。女の子たちはこわくなってしまったらしい。さあ遊びにいこうという男の提案について、わたしたちはいかない、と姉がいった。男ばかりででかけてもしかたない。おれも男の申し出をことわった。おれたちは今夜はもう眠る。そのかわりといっちゃなんだが明日、みんなであんたのところへ遊びにいく、そうしたらジェットスキーにのらせてもらえるかな、とたずねると、男はもちろんだとも、とこたえて店の場所をおれたちに教え、その場を去った。女の子たちも部屋にもどった。おれはまだバルコニーにいた。なんだかすることがずいぶんできちゃったな、とおれはおもった。『火星のタイムスリップ』はその日のうちに読み終えていたが、つぎに読みはじめた『高い城の男』はまだでだしのところだったし、さらに『ユービク』とカート・ボネガットの『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』が残っていた。ジェットスキーを借りる約束もしたし、なにより問題は、あの髪の短いのと長いのの姉妹だ。部屋の番号をききわすれたが、どこにいるんだろう。帰るまでになんとかしてセックスできないだろうか。星の下の海辺のホテルのバルコニーで風にあたりながら、おれは思案した。崖の下からはもう関西弁ではしゃぐ声はきこえない。セックスがはじまったのかもしれない。ビールをまたひとくちのんだ。
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