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むかしむかし、それはもうはるかかなたのむかしのこと、おれは夜の中央線にのっていた。真夏の金曜日で、ひどく混みあっている電車だった。だれもがその不快感にたえながらそれぞれの駅をめざしていた。とつぜん、電車ががたりとゆれて、乗客の全員がおなじ方向にかたむいた。
「いてえ」
むこうのほうで、だれかがこえをあげた。おれのところからは、はなれていてみえない。けれども、すごみのあるわかい男のこえだった。あるいは、すごみをだそうとしているわかい男のこえといったほうがより正確だったとおもう。「いてえんだよ、てめえ、おれによりかかるなよこの野郎」
車内はしずまりかえった。男は怒っていた。たぶん、男のとなりに立っていたひとが、電車がゆれた拍子に男によりかかってしまったのだろう。それを男はおおごえでなじっているらしい。だが、この混みようでは、よりかかるなというほうが無理だ。だれもがおたがいにガマンして電車にゆられているのだ。それが満員電車というものだ。みんな、そうかんがえたはずだとおもう。けれども、じっさいにそうくちにだすひとはひとりもいなくて、ただ、おとなしく男の怒声をきいていた。
「てめえ、この野郎、おれをなめてるのか、どうなんだ、この野郎」
恫喝的な男のこえがつづいた。だれもがイヤな気もちになりはじめた、そのとき、車両の反対側のほうから、べつなわかい男のこえがきこえた。
「うるせえぞう」
どちらかというと、脳天気な、あかるいこえだった。あるいはかれは、すこし酔っていたのかもしれない。「なんでそんなことで怒ってるんだよう。こんなに混んでるんだから、すこしはガマンしろよう」
「てっ、てめえ。ど、どこにいるんだこの野郎」
「どこだっていいだろう? とにかく、おとなしくしてろよう」
車両のかたほうともういっぽうのハジとハジからきこえるふたりのこえに、乗客たちはみみをかたむけた。
「だいたい、この状況でだれかによりかかるなっていうのは、ムリにきまってるだろう?」
「だまれこの野郎、てめえ、おれをだれだとおもってるんだ」
「だれだっていうんだあ? ヤクザかあ? ヤクザが満員電車にのっちゃいけないよ。ヤクザはヤクザらしく、ベンツにのれっていうんだよ、なあ、みんな?」
車両のあちこちでわらい声がした。
「て、てめえ、おれにケンカをうってるのか?」
「お? なんだ? やるのか? やるのか? ようし、じゃ、ここまでこい」
これには乗客全員が爆笑した。かれは、満員でだれもが身うごきできず、それどころか、すこしはなれたところにいるにんげんの顔さえみえないのを理解したうえで、このヨタモノをおちょくっているのだ。乗客たちはそう気がついた。それから数分間、かれは男をからかいつづけた。だが、男にはどうすることもできない。ただ興奮して、品のない言葉をわめくのみである。それがまた、おちょくりの対象になってしまう。そういう問答をくりかえし、つぎの駅で電車が停車すると、男は芸のない捨てゼリフをのこして電車をおりた。われわれには、男が降参してにげてゆくようにみえた。
「これにこりたら電車になんかのるんじゃないぞう」
かれが男にこえをかけると、乗客はまた爆笑し、それから、期せずして全員の拍手がおきた。扉がしまって電車が発車した。けれども、乗客たちの顔はどれも、ふゆかいな満員電車にのりあわせたひとたちの顔とはおもえないような、さわやかな笑顔だった。そうやってみんな、その夜の家路をめざしましたとさ。
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