とり  川について

→川が流れている。おれの頭のうえを、すぐうえを、川が流れている。いつだって川が流れている。いまも流れている。すぐうえを流れている。その川の話をしたい。
→川のある町で育ったひとになら、説明をしなくたってわかってもらえるだろう。いつだっておれの頭のすぐうえを川が流れている。歴史のはるか彼方でプラトンに発見され「忘却の川」と名づけられたこの有名な川が、おれの頭のうえをいまも休まずに流れている。それでおれは今日もこうしてへらへらとめしを食ったり女の子と寝たり道にツバをはいたり石ころをけとばしたりできる。川の流れが止まるのは、おれが死ぬときだ。死人の頭のうえの川は流れない。
→川は流れる。休まずに流れる。一日の終りにおれは、その日のいろいろなことどもを箱につめてこの川に流す。この川のよいところは、すべてをひとつにして流してしまえるところだ。休まず流れる川の水はおれのすべてを洗い流してくれる。恥や、誇りや、悲しみや、もしそうしたいと望むのなら、夢さえ流してくれる。そんなふうにおれはいろいろなことを川に流し続けてきた。三十年間も欠かさずに流し続けてきた。そしてこれからも流し続ける。
→川には橋が架かっている。ときどきおれはその橋のうえに立って、川の流れを飽きずに眺めていることがある。さまざまなひとたちが小舟に乗って橋の下を通過してゆく。おれには彼らに声をかけることさえできない。黙って彼らが過ぎてゆくのを見守っているだけだ。そんなとき、疑問に思うことがある。

 「川は、どこから流れてきたのか。そして、どこへ流れてゆくのか。」

だが、おれにはわからない。川の水は、ただ静かにおれのまえを流れるだけだ。
→高校二年生のときの話だ。おれは、ある女の子ときっちり一週間おきに橋のたもとで会っていた。彼女も高校二年生で、彼女の通っていた高校は、おれの通っていた高校と12キロメートルも離れていた。おれたちの学校の間には三つの町があり、その三つの町の隙間を水田が埋めていた。おれたちの学校のちょうど中間のあたりを川が流れ、その川にかかる橋のうちでもっとも人の通らない橋を、おれたちは待ち合わせの場に選んだ。おれたちは一週間おきにその橋で待ち合わせ、夕日が落ちてゆくのを眺めながら、川の流れに沿って並んで歩いた。ただもくもくと歩いた。手紙も電話のやりとりもない。彼女とは、ただその橋で待ち合わせをして、並んで土手を歩くだけの関係だった。金曜日の夕方、雨の金曜日も風の金曜日も、おれたちは並んで土手を歩いた。おれたちは、おれたちの町の川が好きだった。約束の場所にはいつも彼女が先に来ていて、川の向こうから吹いてくる風に髪をなびかせながら、水の流れゆく先を見つめていた。その姿を思いだすといまも少しだけ胸が痛む。そうだ、彼女はいつもまっすぐに水の流れてゆく先を見つめていたのだ。おれが近づいてゆくと彼女は嬉しそうにほほえんで、それから首をかしげてこうたずねた。
 「ガムたべる?」
うん、もらうよ、とおれが応えると、彼女は制服のポケットからごそごそとロッテのグリーンガムを二枚だけ取り出して、一枚をおれに渡し、もう一枚を自分の口にいれた。それからおれたちは、ガムをくちゃくちゃとかみながら、ゆっくりと歩きはじめる。しばらく歩いたところに水門がある。そこがおれたちの目的地だった。黙って歩き続けるおれたちの横を、川はいつも静かに流れていた。水門まで歩いてしまうと、おれたちはそこで立ち止まり、川と夕日とお互いの顔を交互に眺めあっていた。夕日が土手のむこうへ沈みきってしまうと、おれたちは満足し、何の約束もせずにそれぞれの家へ帰った。
→そのように半年が過ぎた。
→「もう、こんなふうに会えないの。」
彼女がおれにそういったのは、秋の終りごろだった。その日おれたちはいつものように橋で待ち合わせ、ガムをくちゃくちゃとかみながら水門まで歩いた。水門で彼女は大きく深呼吸をしていっきにそういった。「もう、こんなふうに会えないの。」それからほほえんだ。けれど、泣いていた。そのあとおれたちは、ずっと沈黙していた。ながいながい時間が過ぎて、すっかり日が暮れてから、ためしにおれが、こう提案してみた。
 「じゃあさ、さいごにキスしようよ。」
 「ばか。」
彼女はそう応えた。
→それからも毎週おれは金曜日の夕方になると橋へでかけた。けれど、彼女が現れることはけっしてなかった。おれは橋のうえで夕日が落ちるのを見届けてから、川面に小石をひとつ投げ込んで、そして家に帰った。そのようにして彼女は忘却の川を静かに流れ下り、やがておれも橋へは行かなくなった。彼女を思いだすこともなくなった。
→七年が過ぎた。橋の下を七年ぶんの水が流れた。おれたちは、もう一度だけその橋で待ち合わせをした。おれが約束の時間に橋へゆくと、橋はもう使われてはおらず、そのかわりに新しい大きな橋が架けられていた。かつておれたちが待ち合わせをした橋は、新しい橋の隣りにぽつりと取り残されていた。舗装のあちこちが剥がれ、センターラインも消え、いたるところに草がはえていた。それは、橋の死骸だった。その橋のまんなかで、23歳になった彼女が腰をおろし、川のゆく先を見つめていた。まるで、16歳のときからずっとそうしているみたいだった。おれが近づいてゆくと、彼女は七年まえと同じように、首をかしげてにっこりとほほえんだ。おれは彼女の横に腰をおろし、そこでゆっくりと煙草を一本吸った。おれたちの下を、かわらぬ川が静かに流れていた。
→その川は、いまも流れ続けている。

[15,12,1999]