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大学生のときに、構内のベンチにすわってウォークマンをききながら、そのまま失神してしまったやつがいる。ギタリストで、ギターをかかえて、チープ・トリックの「サレンダー」をコピーしているところだった。ところが、くりかえしきいているうち、曲に陶酔して失神してしまった。それでそいつはしばらく笑いものになった。楽器を手にするにんげんというのは、音楽にたいする勝手なおもいいれと、そのおもいいれにたいするプライドをもってるやつがおおくて、チープ・トリックみたいな、コマーシャルで、ポップで、ギミックな音楽はあまりこのまれない。それでみんな、あんなバンドで失神するなんて、とわらったのだろう。けれどもおれは、失神しちゃうのはわかる気がした。コマーシャルでなにがわるい? 失神するものは失神する。五月で、いい天気の日だった。そらをみはるひとがたまげて腰をぬかすくらいの上天気の日だった。そんな日にベンチにすわって「サレンダー」をくりかえしきいていたら、おれだって失神するかもしれない。つまり、おれはあの歌を愛してるのだ。あの、コマーシャルでギミックでくそったれな「いつかは君みたいな女の子にであうだろう」を、おれは愛してるのだ。そう気がついて、なんだかおれはかなしくなった。
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いつかは君みたいな女の子にであうだろうって
かあさんはいってたよ
「でも気をつけなくちゃだめよ。おまえときたら
どんなのにひっかかるか、しれたもんじゃないからね」だってさ
(「サレンダー」)
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では話をはじめる。彼女をルーシーとよぶことにして、ルーシーの話をする。それから、ルーシーの幸福をいのることにしよう。ルーシーはおれがさいしょに家庭教師をした記念の女の子なのだから。
ルーシーの家は文京区にあって、週ににどずつ、おれはそこにかようことになった。ルーシーの部屋は、二階の、日のしずむ側にあった。ルーシーの勉強机に、おれたちはならんでむかった。部屋のなかにはほかにベッド。ベッドのあたまのところにある棚にはぬいぐるみが数個。それと、脚のすこしさびた小テーブルがだされていて、そのうえに二杯の紅茶。紅茶は湯気をたてていた。そのころルーシーは中学生だったが、学校にはかよっていなかった。学校には、いじめる子たちがたくさんいるから行きたくないの。学校にいくかわりに、家庭教師を三人やとって、交互にきてもらってるからいいの、とルーシーはわるびれずに教えてくれた。その三人の家庭教師のうちのひとりがおれというわけだった。
「先生、先生は、すきなひと、いる?」
「さあ。」
「わたしはね、サクライさんがすき。」
「サクライさん?」
「学校の、先輩なの。サクライさんと結婚できますようにって、いつも神様に祈ってるの。」
「じゃあ、学校にいかないと、あえない?」
「そうなの。だから、さびしいの。」
「かわいそうだね。」
「そのかわりに、ロビンの歌を聴くからいいの。ロビン・ザンダーって、しってる?」
「チープ・トリック。」
「うん。サクライさんは、ロビンにそっくりなんだよ。」
そういってルーシーはほほえんだ。ろうそくに火がともるようなほほえみかたをする女の子だった。おれには、ともったろうそくのかすかな熱さえかんじられる気がした。それからルーシーはチープ・トリックの新譜を大切そうにレコード棚からとりだし、ターンテーブルにのせた。その両面を聴くことがおれのさいしょの家庭教師の授業だった。
それからしばらく、おれはルーシーの家庭教師をつづけた。半年ばかりつづけた。とつぜん、ルーシーが「病気になった」という理由で、おれは家庭教師をことわられた。たしかに、この子は病気なのではないかとおれも感じていたので、それはなっとくのいくことだった。
家庭教師をやめて一年ちかくが過ぎたとき、ルーシーのお姉さんがおれのアパートにあらわれた。
「妹は先生になついていたから、あいにきてほしいんです、迷惑なのはわかるけど、どうかお願い。妹を助けて。」
おれはルーシーの部屋でひさしぶりにルーシーとあった。お姉さんにつれられて、ルーシーの部屋に足をいれた。ひんやりとした床の部屋だった。窓の戸は閉め切られ、それはもうなん週間も開けられたことがないようにおもわれた。照明も消されていた。それまで暗闇だった部屋に、おれたちが開けた扉から光がさしこんだ。ひどいにおいがした。子供のころに飼っていた犬のにおいをおれはおもいだした。そのにおいだった。悪臭だった。アルコールのにおいが、それにまじっていた。ルーシーはそこにいた。ルーシーはベッドにもたれて床にへたりこんでいた。すこしも動かなかった。みだれた髪が顔をかくしていて、目覚めているのかねむっているのか判別がつきかねた。ルーシーの全身はしろくひかっているようにみえた。全裸だった。不快なふとりかたをした肉だった。一年みないうちにルーシーは体重を二倍にしてしまったらしい。悪臭はこのせいか、とおれはおもった。ルーシーは十六歳のはずだった。このひどいにおいは、十六歳の女の子の肉にみなぎるちからを、肉の内側にとじこめたせいでしみだしてきたにおいなのだ、とおれはおもった。
「ルーシー。」
お姉さんがちかづいて、からだを毛布でつつみながら、そうよんだ。ルーシーは顔をあげた。あたりをみまわした。
「ロビン。」
ルーシーがまぶしそうにおれをみて、そういった。
「このひとはロビンじゃないでしょう、このひとは栗田先生でしょう」
お姉さんがきつい調子でいうと、ルーシーはおびえた顔をした。おれはすこしだけぞっとした。
それからおれは毛布にくるまったルーシーと話をした。というか、話をしようとした。けれど、会話にならなかった。ルーシーのしゃべることにはあまりに脈絡がなかった。酒に酔っているせいかともおもったが、そればかりではないだろうと感じた。めんとむかうと、ルーシーのかたほうの眉毛がないのに気がついた。お姉さんによると、ライターで燃やしてしまったという話だった。ルーシーになにがあったんだろう? 話をしながら、おれはかんがえた。わからなかった。ただ、一年間というのは、ひとりの女の子が、女の子の廃墟になってしまうのにじゅうぶんな時間なのだということだけはわかった。
部屋にルーシーをのこしたまま、お姉さんとおれは階下へおりた。お母さんもまじえて三人で話した。ルーシーはこの一年、ほとんど部屋にこもったままだという話だった。一日を約二十五時間のサイクルですごし、そのはんぶんをねむり、のこりのはんぶんを食事と飲酒についやしているという話だった。そとにでず、だれにもあわず、扉をしめきり、部屋にとじこもったきりの生活をつづけているときかされた。
「まず、酒を飲ませないようにすること。それから、なるべくはやく、できるならいますぐにでも、病院でみてもらうべきだ」
おれは主張した。お姉さんもおれとおなじことをかんがえているようだった。だが、お母さんはしぶった。「おとうさんと相談してきめる」、お母さんはそういうだけだった。夜になって、ルーシーのお母さんがにぎりずしの出前をとってくれた。おれはそれをごちそうになって帰った。
夜の電車のなかで、おれは、どういうわけか、おそろしく暴力的な気ぶんになった。おれたちの世のなかのすべてがなんだかひどくみにくくみえた。
それからもそとの世界でおれがへらへらとちんけに生きのびていたそのいっぽうで、ルーシーはといえばあいもかわらずあの月の裏側の海に沈んだ潜水艇のような部屋にとじこもり、酒を飲んでいた。ルーシーのお姉さんがおれのアパートにあらわれて、そうおしえてくれた。ルーシーはときどき、ひとりきりでわらいころげた。そのわらい声が家族をなやませた。ときどき泣きわめいたりもした。その泣き声もまた家族をなやませた。ルーシーの部屋には電話器があって、ルーシーはそれでだれかと話していた。だがその電話の線はどこにもつながっていなかった。酒をとりあげるとルーシーは、びっくりするようなちからで暴れた。おかげでルーシーも家族もからだじゅう、なまきずがたえなかった。ルーシーについてお姉さんからきかされたのは、そんな話ばかりだった。
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しばらくして、チープ・トリックがなん度めかの来日公演にやってきたとき、おれはチープ・トリックのグルーピーの女の子のひとりをたらしこんでいて、彼女のなかまたちと行動を一緒にした。女の子たちにわたされたチケットの束をにぎって横浜球場でダフ屋をし、メンバーが滞在してるという品川プリンスホテルにとられた彼女たちの部屋にもぐりこみ、交互に部屋のそとにでてメンバーがとおるのをまった。ルーシーのことをおもいだした。もしかしたらロビン・ザンダーにあえるかもしれない。ルーシーの話をできるかもしれない。ルーシーのためにロビンがなにかをしてくれるかもしれない。ずいぶんつごうのいい話だけれど、そんなことをかんがえた。けれどけっきょくメンバーにはあえず、チープ・トリックは名古屋だか大阪だかへ出発し、グルーピーたちはおなじ新幹線にのるためにホテルを出発し、おれはじぶんのねぐらへかえった。もしもこれが映画かなにかだったら、いまごろおれはロビン・ザンダーをつれてルーシーのベッドにむかっているのにな、とそのときのねどこのなかでおもった。
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大学をやめておれはアパートをひきはらった。ルーシーはまるで、消しゴムでけしたノートの落書きみたいにおれのじんせいからいなくなった。だけど、消しゴムでけされた落書きは、いったいどこにきえていってしまうんだろう。いつもおれはおもうんだよ。みんな、どこへきえていってしまうんだろうって。
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