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●電車のなかに忘れ物をして駅員さんのとこにいくと、たしかに、何両目のどこにおいたかってきかれたりする。それがわからなくちゃ探してくれる駅員さんだってめんどくさい。それはわかるんだけど、でも、じぶんの乗っている車両が何両目かなんてつねひごろ把握して電車にのるような、そんな注意ぶかいひとならそもそも、電車の網棚にモノを忘れて電車をおりるわけがない。こんな簡単な道理もわからんのか、と駅員さんにつめよりたくなるけど、いえるはずもない。忘れ物をして、駅員さんに余計な仕事をさせてしまっているのはこっちだからだ。迷惑をかけてるのはこっちなのだ。どうかんがえたって立場はむこうのほうがうえなのであって、だからときには、たえがたきをたえ、しのびがたきをしのぶことにもなる。‥そんなわけで、電車の忘れ物の話。
●もうものすごくまえなんだけど、すごいものを電車のなかに忘れてきてしまったことがある。どこがどのようにすごいものなんだときかれると、ちょっと返答にきゅうするものがある。それくらいすごい忘れ物だった。電車が発車したあとに気づいて、網棚にそれを忘れたことに気がついて、その場でじぶんが砂の柱になってしまったような錯覚をおぼえてしまうほどすごい忘れ物だった。でも、忘れちゃったものはしょうがない。気をとりなおして駅員室をたずねる。
「あのう〜、すいません」
「はい、なんでしょう」
「いまでてったクダリの電車の網棚に忘れ物をしちゃったんですけど‥」
「忘れ物ですか。モノはなんですか」
「ビデオソフトなんですけど。貸しビデオ屋で借りてきたやつなんで、ビデオ屋の袋にはいってます」
「ビデオソフトですか。タイトルは?」
「へ」
「そのタイトルはなんですか」
●おれはそれまでのじんせいで、これほど残酷な質問をされたことはない。
「‥‥‥」
「どうしました」
「いや、あの、それっていわなくちゃまずいですか」
「いちおう、みつかったときに中身を確認しますんで」
「かっ、確認するんですかっ。あ、あの、確認しないで探してもらうわけにはいきませんか」
「なにをいってるんですか。中身をみなくちゃわからないじゃないですか。タイトルをおしえてください、タイトルを」
●清水の舞台からとびおりるというのはたぶん、このときのことをいうのだろう。それくらいの決死の覚悟でおれはそのタイトルをくちにしたのだった。
「『おしめりジュンコ』です」
「はい? なんですって?」
「おしめりジュンコです」
「なにい? なにジュンコお?」
「お、お、おしめりです、おしめり」
「おしめり? おしめりジュンコ? ふ〜ん。ちょっとまっててください。いま台帳に記入しますから」
●そういって駅員さんは、過去の忘れ物がずらずらと書き込まれたノートをひろげ、そのいちばんしたの行に『ビデオ・おしめりジュンコ』と書きくわえた。
「じゃ、このとなりに住所と名前をかいてください」
「へ?」
「ここに、住所と名前」
「こっ、ここ、ここにですか?」
●ここというのは『ビデオ・おしめりジュンコ』の横の空欄のことである。そこにおれの名前と住所をかけと駅員さんはいうのであった。おれはそれまでのじんせいで、これほど残酷な仕打ちをされたことはない。
「どっ、どうしてもかかなくちゃまずいですか? ‥‥まずいですよね。‥だめですよね。‥わかりました。かきます」
●そういうわけでノートのおしまいにこういう一行ができあがった。
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