[2000年11月16日] 春や昔
菓子パン(あさ)
みそラーメン。ゆでたまご(ひる)
すし(ゆう)

→ながいあいだ、松山へいくことにあこがれていた。そういうのを松山のひとたちがきいたらめんくらうかもしれない。ちょうどおれがだれかに、おれのすむまちにくることにあこがれていたといわれたらめんくらうだろうみたいに。けれども、めんくらわれてもなんでも、じっさいにそうだったんだからしょうがない。おれは、松山へいくことにあこがれていた。その松山の、松前町6番地というのがおれの呪文だった。その地番で、西暦1901年におれの祖父はうまれた。昭和の天皇がうまれたのとおなじ年号だ。そのころの日本がどのようだったのか、おれにはうまく想像することができない。だからおれには、祖父の子供時代のことをうまく想像することができない。おれのしっている祖父は、禿頭で、巨漢で、ほほえんでいる老人だった。祖父のそれ以外の姿をおれはあまりしらない。祖父はほほえんでいた。姿勢をのばし、にこやかにほほえみ、そして、美しい日本語を話した。ひとつひとつの音をきちんと発音するひとだった。一人称は「僕」だった。どこからみても老人となったあとでもまだじぶんを「僕」といっていた。祖父の脳がまだ極楽にいってしまうまえの、まだ祖父がまともだったころのおしまいにおれが祖父と話したとき、祖父はもう八十をすぎていたが、そのときもじぶんを「僕」といっていた。
→たいていのひとがそうであるようにおれには祖父がふたりいた。いっぽうの茨城の祖父はわらぶき屋根の職人だった。滅びゆく誇り高い種族の末裔だ。サーベルタイガー、ドードー鳥、わらぶき屋根職人。そうしてもういっぽうの松山の祖父は、いわゆる自称作家だった。おれは子供のころ、せまくてうすぐらい茨城の家の畳のうえにねころんで、松山の祖父の本をくりかえし読んだ。それらは「おじいちゃんの本」と家族によばれ、本だなのすみにならんでいた。とうじのおれのお気にいりは『聖書物語』だった。そのでたらめな物語を、まだとしはもゆかなかったおれは本気にして読んだ。そのほかの「おじいちゃんの本」といえば『シャカ物語』『ギリシア神話物語』『日本神話物語』などなど。これらの著作から判断するに、つまり祖父は、ひとのふんどしですもうをとっているタイプの自称作家だった。
→さて、これはとうじの、世間しらずの坊主だったおれには秘密にされていたことだが、「おじいちゃんの本」にはもうひとつの傾向があった。祖父は、男女の性愛についても、大胆な著作をいくつかのこしていたのだ。『聖書物語』などのほかに祖父は、性愛の本、ひらたくいうと、エロ本を著した。それらは、祖父がうまれてから百年が経過したいまひろげてみたらギャグでしかないが、出版されたとうじは立派なエロ本であったにちがいないとおもう。つまり祖父は、ひとのふんどしですもうをとるだけではあきたらず、ふんどしの中身についてもひとかたならぬ関心を抱いている自称作家だった。それらの本をおれがおしいれのおくから発見して手にするのはしばらくあとになってからのことになるが、性交を現実に体験するよりもずっと以前ではあった。おれは、性交の実技面や精神面について、祖父の著作に教わった。先祖代々とか奥義秘伝とかいった言葉がいまおれの脳裏をかすめていったような気がするが、たんなる気の迷いだろう。とにかくおれは、祖父直伝の技巧でこれまで性交をしてきたということができる。たぶんおれは、うまれてはじめてエロ本を読む男の子がもつ興味以上の興味をもってそれらを読んだとおもうし、そうしてえた知識はやがておれの全身のすみずみまでしみわたることになったからだ。もちろん、この件について祖父をせめるつもりはない。だが、エロ本の著者を家族にもつ人間のおおくがいだくであろう複雑なおもいもたしかにある。そんなわけで、ふるびた本のにおいと、その本の表紙に印刷された祖父の名をみるたびにとうじのおれが抱いた不思議な感情はうまくつづれない。
→祖父が死んで十年もすぎてから、はじめておれは松山の地面にたった。松前町6番地は、それがどこだったのかわからなかったが、おれにはもうじゅうぶんだった。やがて喫茶店があって、はいってコーヒーを注文した。となりの席に女たちの集団がいて、話しこんでいた。それがきこえてきて、おれは耳をすました。
「おじいちゃんの言葉だ。」
おれはおもった。女たちは、祖父がつかっていた言葉を話していた。それをきくのはもう十年ぶりだった。祖父が死んだときにさえながれなかった涙が、そんなところでにじんできた。おれはその涙をながすべき時を、十年もずらしてしまったことになる。そのときおれはおそらくはじめて、祖父にも子供の時代があったことをうまく感じられたのだとおもう。どの老人にも、子供だったときがある。そのことが、おれの胸のうちのどこかをえぐったのだ。

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