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きのうはヌーノ・ベッテンコートというギタリストのライブがしぶやであって、それを見物にいったんだけど、トラブルのために機材の搬入がおくれていてスタートがおくれるという。予定では夕方五時開演なのだが、はやくてもはじまるのは八時だと、会場の入り口のところで係のお兄さんが説明している。くらくなりはじめたまちの街路樹は木枯らしにふかれて枯葉をおとしてる。こんなところで三時間も待ってられない。いっしょに見物にきてくれた女の子とおれはちかくのみせにはいってめしをくい、ついでにビールをのんで時間をつぶし、八時ごろに会場にいった。でもまだはじまる気配はない。とりあえず席をさがして腰をおろす。そのとたん「ではこの列のお客様は全員おたちください」とまた拡声器をもった係のお兄さんがあらわれていう。おれの列のことである。みんながたつのでおれもわけがわからないままたった。「では、順にこちらにならんでください」とお兄さんはおれたちを誘導する。そのさきにはギタリストがいて、やっと到着した機材のセッティングをまつあいだ、あつまった客の全員に握手をしてくれてるのだという。「おれ、握手なんてしたくないよ。ひとりで席にのこってたら反社会的かな」とつれの女の子に相談すると、「反社会的です。だまってならびなさい」とたしなめられた。しぶしぶ列にしたがってあるいていると、もうすぐおれの番ということになった。ところがその直前に、スーツ姿の係のおねえさんがいて、「サインはひとり一点におねがいします。あらかじめサインしてほしいものを用意しておまちください」という。そんなの直前にいわれてもこまる。そもそもおれはサインなんていらないんだけど、たぶんそういうのも反社会的なんだろう。とにかくなにかにサインをもらわなくちゃならん。こまったことになったな、と上着のポケットをまさぐると、あった。皿が。‥‥皿? なんでこんなものが? と目を皿にしてみつめたが、どうみても皿である。しろい、みごとな円形の、こぶりの皿である。しかし、いったいぜんたいなんで、といぶかるまもなく、おれの番がきて、ギタリストのまえにおしだされてしまった。しかたなく皿をギタリストのまえにさしだすと、かれは動きをとめて、「は?」という顔をしておれをみた。「なんで皿?」と視線でといかけている。でもききたいのはおれのほうだ。なんでそんなものがでてきたのかはわからない。しかたなくあいまいにほほえむと、ギタリストは文句もいわずにそれにサインをしてくれた。席にもどると、つれの女の子があとからきて、文句をいわれた。「なんで皿なんてもちあるいてるんですか、はずかしいじゃないですか、だいたい、失礼じゃないですか、まったくもう」とぷんぷん怒っている。ううん、とうなって皿の裏をみると、マークがある。スターバックスのマークである。そういえばビールをのんだあと、まだすこし時間があるな、と会場のはすむかいにできたスターバックスにたちよりエスプレッソを注文してのんだのをおもいだした。してみるとこれはあのときのソーサーなのかもしれない。そういえば、コーヒーをのんだあとで、歯医者にもらった痛みどめのくすりをのもうとしてとりだしたんだけど、水がないのに気がついて、ソーサーのうえに錠剤をふたつおいて、水をくみにいったのをおもいだした。そのへんでなにかがあったのだろうか。記憶をたぐってみるのだが、どうもよくわからない。しかし、第三者がおれのポケットに皿をしのばせるというのも妙なはなしだし、ましてや皿が宙にふわふわうかんでおれのポケットにもぐりこむというのもありえない。してみるとこれはやはり、おれがこの手でポケットにいれてしまったのだろうか。しかしおれにはこころあたりがぜんぜんない。ふしぎなこともあるものである。
●スターバックス様:そんなわけで、皿にはサインをされてしまいました。これ、かえさなくちゃまずいですか。まずいですよね。こんどこっそりかえしておきます。ごめんなさい。
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