[2000年11月27日] サンキュー8
菓子パン(あさ)
ちくわのあげたのの定食(ひる)
まぐろのやいたの。わかめのすのもの。だいこんのみそしる。めし(ばん)

 おれの名は有賀泰三、あだなはサンキューである。「おい、これは大変なことになったぞ」と受験勉強につかうたいせつなノートをながめながらシンジがいったのは、おれたちがそれから一か年と四か月ばかりをすごすことになったビルにすみだしたばかりのことである。そのときもおれたちは部屋にいて、おれはシロクロのテレビをみていたかひまつぶしのエロマンガでもめくっていたかしていて、シンジはシンジでノートにむかって鉛筆でなにやらねっしんにかいていた。勉強をしているのかとおれはおもっていたが、そうではなかったらしい。くびをのばしてノートをみると、おれのすむビルの各階の入居状況がずらずらとしるされている。
401号室‥ピアノ
402号室‥教育
403号室‥作曲
404号室‥バイオリン
といったあんばいである。町には音楽大学がある。通りにはそこへかようたくさんの女の学生がいききをしている。大学にはいっておれがすんだビルはそういう女たちの入居をめあてにしている。ノートに書いてあるピアノだの教育だのというのは、それを勉強している女の学生がそこにすんでいるという意味である。おれたちのほかは、ビルにいるのはぜんぶ音楽大学にかよう女の学生である。「これは大変だ」とシンジはまたいい、しんけんな顔つきになっておれをみた。なにが大変なのかはわからない。おおかたろくでもないことを考えていたのだろう。そもそもこの男はろくなこと以外は考えつかない。女たちは、まさにひとつのおおきな家族のようになかよくそのビルの三階と四階でくらしていて、あたらしくやってきたおれとおれの相方のシンジは女たちの興味のひいたらしい。引きこしてすぐ、両どなりの女があらわれて、あたらしくこのビルにきた人間とこれまでこのビルにくらしていた人間どうしで顔あわせの会をやるから参加してほしい、とつたえにきた。殊勝なこころがけである。おれはもともと会と名がつけばなんにでも出席したがるしょうぶんである。こんなりっぱなもくてきがある会ならばなおさらだ。もちろん出席するとこたえると、こんどの木曜日の晩に鉄道の踏切のちかくの居酒屋の一室を予約してある、と地図をかいてくれた。なるほど大学生ともなるとたとえ女でも会は酒つきでやるのか、とおれは感心をした。居酒屋の座敷でおれたちを歓迎する会がひらかれたとき、ビルにくらしていた九人の女たちのうちの八人が参加し、おれもそこにいた。おれにくっついてシンジもやってきた。あとになってシンジはそのことをえらく後悔した。そのときそこでシンジがこうむった災やくは、シンジによれば、日本刀をつきつけられたほうがまだましだというほどのものだった。そのときあつまった八人の女たちのうちの七人とおれがひとつの輪になって話をした。のこりのひとりとシンジがさいしょからさいごまでふたりきりで話をした。シンジとさしむかいで話をしたのは四階のバイオリンだった。おれたちのビルにバイオリンの音をたれながしている女はふたりいて、ひとりはとなりの部屋、もうひとりは四階だった。おれたちははじめそれぞれを「となりのバイオリン」「四階のバイオリン」とよんで区別していたが、すぐにやめた。そんなふうにありきたりのよびかたで区別するには、四階のバイオリンはあまりに体格がよかったからである。四階のバイオリンは盛合さんといい、よみかたのわからなかったおれたちはこれをモアイとよんだ。モアイの体格は、みるものを感心させ、畏怖させた。あいつをみるとなぜだかおれはゲシュタルト崩壊ということばが連想されてならん、とシンジにいったことがある。ゲシュタルト崩壊たなんのことだ、とシンジがおれにきくので、そんなのはしらんが崩壊というからにはなにか崩壊するんだろう、とにかくそれをおもいだすのだ、とこたえた。シンジはシンジで、おれはあいつをみると黙示録ということばをおもいだす、といった。いくらなんだってそれは失礼だろうとおれはわらったが、ないしんではなるほどともおもった。その夜の黙示録は嫁入り道具のたんすのような堂々たる体躯にのっけたモアイ像のような顔を紅潮させて、つばきをとばしてしゃべりくるっていた。ひとりでしゃべり、ひとりでわらった。ゲボゲボゲボ、というわらいごえで、洗面台の穴に水がすいこまれる音のようだ。「ハアアナガタミツルはどうして中学生のくせにクルマを運転してたのよおおお、中学生がクルマを運転するわあけがないでしょおおお、ゲボゲボゲボゲボ」モアイはそれでもじぶんは気のきいたことをいっているつもりだったらしい。シンジだけでなく、店じゅうのにんげんに聞こえるようなおおごえであとからあとからまくしたてていた。シンジはあおざめていた。モアイが話すにしたがってますますあおざめた。モアイの声はきこえていただろうが、内容が頭にはいっているのかどうかはあやしい。うつろなめつきだった。ときどきシンジは頬にとんできたモアイのつばきのしぶきをそででぬぐったが、モアイは気にかけていないようだった。モアイはテレビアニメの熱心なファンならしくて、話題はつねにそれだったが、その場にいあわせたなかでほかにテレビアニメに興味のあるものはひとりもなかった。シンジにも興味はなく、あいづちひとつうつわけではなかったが、モアイはひるまなかった。モアイははりきっていた。化粧まではりきっていた。とくに目のまわりの化粧がすごくて、それはクマドリのようでもあり、死相のようにもみえた。髪型も珍妙で、ミスター・スポックがうしろ髪をのばして三つ編みにしたようにもみえたし、たんなるべん髪のようにもみえた。その不吉な姿でモアイはむやみにしゃべった。しゃべりかける相手はシンジに集中した。そのようすにはあまりに鬼気せまるものがあったので、モアイとシンジのあいだにわりこむ勇気のあるものはなかった。それがモアイにシンジの独占をゆるすことになり、それでますますモアイは興奮したらしい。モアイのひらいた毛穴という毛穴から硫黄臭のガスがたえず噴出しているようだった。それにやられてシンジはもうろうとしていた。それでもおれはシンジをたすけようとはしなかった。おそろしかったからだ。そのときのモアイはあまりに邪悪で、できることならかかわらずにすまそうとおれはした。シンジにはすまないが、いけにえになってもらおうとかんがえた。友人をひどいめにあわせてじぶんは高見の見物をきめこむなんて了見はおれにはないが、それもこととしだいによる。にんげん、いのちがかかわるような場めんまでくれば、しょせん我が身がかわいい。モアイがしゃべるのをみるのはこの晩がはじめてだったが、こんなにおそろしいものだとはおもいもよらなかった。モアイがその晩の標的にシンジをえらんだのは、もともとシンジを気にいっていたからなのかもしれない。だが、たまたまだったのかもしれない。もしもたまたまシンジでなくおれだったら、とおもうとおれはしんからおそろしくなった。女たちもおそろしくおもっていたらしい。どの女もことごとく、モアイとシンジについては、これをいないこととしていた。だれがいいだしたわけではないが、そうすることにして、そうやっておれと七人の女は、白雪姫と七人のこびとのようにわれわれだけの世界に没頭するようにつとめた。モアイの快進撃はつづき、援軍もなく孤立したシンジはもはや退却をする気力さえないようで、されるがままになっていた。シンジはわる酔いした。あたりまえだ。顔色はすぐにむらさきになり、二時間としないうちに便所ではいた。おれがそこへつれていき、介抱をした。浜辺で水をはくところをみたことはあったが、シンジがゲロをはくところをみるのははじめてだった。よろよろと便所からもどったシンジはたたみにぱったりとたおれ、そのままぴくりともしなかった。絶命してしまったようにみえた。女たちが心配し、歓迎会はそれでおひらきになった。おしまいにおれが便所で小便をすませ、座敷にもどっておどろかされた。モアイがかるがるとシンジをかかえあげるところだったのだ。バイオリンをひかせておくだけではおしいとつねづねおれがかんがえていたモアイの体格は、だてではなかった。モアイはシンジをかかえたまま店をでて、夜のとおりをあるいた。すれちがうものはだれもがひとしく呆然とした。おれと女たちはシンジをかかえたモアイからすこし距離をとってうしろにしたがった。雨がつよくふりだしていて、すぐにおれたちはぬれた。モアイの背中から湯気がもうもうとたちこめているのが超自然的で、そこだけなにかゆがんでいるようにおれにはみえた。だれもがモアイに道をゆずるので、無人の荒野をゆくようにモアイは道のまんなかをずんずんとあるいた。だらりとたれさがったシンジの腕がモアイの歩調にあわせてぷらぷらとゆれていた。それは白鯨モビーディックにはりつけられた船長の腕を連想させた。ビルまできてもモアイはシンジをかかえたまま平然と階段をのぼり、おれがだまっていると、あたりまえのようにシンジをかかえて四階へいこうとした。おそらくじぶんの部屋にはこぼうとしていたのだ。あわてておれがよびとめると、ああ、そうだったわね、とモアイははじめて気がついたようにいい、踊り場でシンジをおれにわたした。モアイがあきらかに残念そうな表情にかわるのをおれは目げきした。モアイはシンジを自室にはこびいれ、そこでなにをするつもりでいたのか。想像しておれは足がふるえた。ふるえる足でモアイをみおくったあと、よろめきながらシンジを部屋にはこび、からだをふいてふとんにころがした。あさがくるまでシンジはめざめなかったが、ひどくうなされていた。わるい夢をみていたのはまちがいない。雨ははげしさをまし、うなされるシンジに階下から、いつものオヤジが元気にヤマトを唄いかけていた。
 その夜からビルの女の子たちはシンジにかかわるのをさけた。モアイににらまれたくなかったのだろう。おれだけでなく、ビルの女の子たちもまたモアイがこわかったのだ。それからしばらくは、シンジがどこかの女にひどいことをするのをみるたび「モアイにいいつけるぞ」といっておれはシンジをからかった。とたんにシンジの顔色がかわるのがおかしくて、よく年の春、モアイがビルをひきはらったとき、おれはこころからなごりをおしんだ。そのかんおれはいくにんかのビルの女たちによくしてもらったが、とうとうシンジはどの女に手をだすこともなく、あとになってかんがえてみればそれはそれでたしかに大変なことだったかもしれんという、この話はこれでおわる。サンキュー。

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