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ちかごろこのホームページの文章に影響をうけましたという奇特なひとがいて、他人に影響をあたえるというのはこれはなかなかえらそうなことなのでおれもおもわずえっへんと胸をはりそうになってしまったのだが、どうもひらがながおおいというところの影響をうけたのだそうで、「わたしの文章もひらがなばっかりです」とうれしそうなので、それはよかったねとほほえんではみるのだけど、内心なんだか複雑である。そんな影響をあたえてしまう文章というのもどうか。できることなら「生きる勇気がわいてきました」とか「やさしい心をありがとう」とかなんとかそういうことをいちどでいいからいわれてみたいものだとおもうんだけど、いちおうこれまでのところそういう感想をのべてくれたひとは皆無である。こんなにかいてるんだからひとりくらいいてもよさそうなものだとおもうんだけど、いちおういまのところそういうひとはいない。
ひらがなのことはけっこうひとから指摘されることがあるんだけど、おれとしてはだいたいこんなものじゃないかとおもっている。だいたいおれの知性とか教養といったものの程度からいって、これくらいの漢字とひらがなの比率がいい線なんじゃないかとおもっている。あと、うすうすかんづいているかもしれないけど、変換するのがめんどうくさいというのがある。とくに、やっぱりおれにもときたまこう、言葉がぶわーっとあふれてくることがあって、そういうときに文章をつづっていると、時間とのたたかいみたいになってしまう。あたまにずらずらとでてきた文章をそのままキーボードでうちこむわけだけど、そういうときはいちいち変換なんてしてられない。どうもおれのばあい、文というのはいちどあたまにうかんでしまうとそれで気がすんでしまうらしくて、もう二度とでてこないことがおおい。だから、でてきたときにその場で記録しておかないともうどっかにいっちゃって二度とおがめないことになってしまう。そういうわれながらいさぎよいあたまなので、あわててキーボードをたたきまくることになる。それでもなかなかおいつかなくて、こうやって文章をつづっている一行か二行さきのことをあたまのなかではつねにかんがえていて、ちょっとまってくれよ、ちょっとまってくれよ、という感じで指をうごかしている。一行か二行ならまだましで、ときには五行くらいさきのことをかんがえていることもあって、そんなときは修羅場である。うえをしたへの大騒ぎということになってしまう。これじゃ変換なんてしてるひまはない。だからときどき、ぽた、ぽた、ぽた、と性病のときの小便みたいなやりかたでじっくりとキーをおして文書を作成してるひとをみるとちょっとふしぎになる。理数系のひとにそういう傾向があるみたいだ。理数系の開発技術者なんていうとどうも、指いっぽんで、ぽす、ぽす、ぽす、とキーをたたいてはコーヒーをすすってるような印象がある。たまたまおれのまわりにいるその手のひとがそういうタイプなだけなのかもしれないけど。それにくらべると文系のひとというのはもう、十本指を駆使してばたばたばたばたばたばたばたばたとせわしなくキーボードをたたいてるようなイメージがある。両手がふさがってしまうとマウス操作ができないのがもどかしいというので、足で操作できるマウスはないのかとか、キーボード自体がマウスをかねていて、入力しながらキーボードを前後左右にうごかしてマウス操作できたらいいのにとか、いっそ机がマウスだったらどうだとかいいだしたりする。そんな曲芸みたいなことをしてまで入力したいのかとおもうけど、文系というのはどうもそういうせわしないところがある気がする。それと、そうやってせわしなく入力をするひとのなかにはおうおうにしてやけにキーをつよくたたくくせのあるひとがいて、ああいうひとにつかわれることになってしまったキーボードというのは災難である。区切りがついてリターンキーをたたくときなんか、指も折れよというくらいにちからづよくばきいっとたたいたりして、はたでみていてびびることがある。そんなつよくたたかないでもという気もするけど、まあひとそれぞれのくせなんだからしょうがない。かくいうおれも文系のにんげんで、ばたばたばたばたばたとキーボードはかなりせわしなくたたいてるほうである。おれがさいしょにタイプというのをしたのは大学生のときで、サークルでつかっていた部室のまうえの部屋が中核派のひとたちがつかってたといわれてる部屋だったんだけど、おれが学生のころにはもうだれもつかってなくて、空き部屋になっていて、そこにどういうわけかふるびたタイプライターが一台おかれていた。それをつかって、かびくさい部屋のなかで英語の歌の歌詞をうってたんだけど、そこでキーの配列というのをおぼえた。そのころはキーボード文化というのがいまみたいに普及していなくて、学校で教えてくれるわけでもないし、いちいちアルファベットの文字をさがしながらうつので、さいしょのころは一曲タイプするだけで半日がかりだった。それでもまあ、ひまをみつけてぼちぼちとタイプライターはつかっていたので、半年もするとそこそこうてるようになった。そうこうするうちワープロというものが世間にひろまった。おれも一台購入したわけだけど、その説明書にはごていねいにもタイピングのホームポジションだとか運指‥とはいわないのかな。音楽用語だもんな。なんていうんだろうほら、ようはどの指がどのキーをたたくかの規則なんだけど、そういうのがのっていて、なんだよそうだったのかよ規則があるんならはじめからそういってくれよとつぶやいて、ワープロの使い方の練習やタイピングの練習もかねて、とりあえず本をまるまる一冊うちこんでみることにした。ひまだったんですねおれも。いまもひまだけどむかしからひまだったんですね。どの本にしようかな、薄いやつがいいよなと本棚をざっとみわたしてぱっと目についたのがマルクス・エンゲルス著『共産党宣言』だった。これなら薄くてちょうどいいやとワープロのまえにひろげて、ヨーロッパに幽霊がでる、共産主義という幽霊である、とかなんとかうちはじめた。一週間ばかりしてあの最後のしめくくりの有名な「万国の労働者、団結せよ!」という一節をうちおえると、すっかりタイピングはものになっていて、ついでに世界革命も実現してしまったような気もしていた。しかし、いまにしておもうんだけどこういう専門的というか、なにかにかたよっためんのある本というのはタイピングの練習にはあまりむいていなくて、おなじ言葉がなんどもでてくるんだけど、おかげでその言葉は指グセになってしまってやたらめったらはやくうちこめるんだけど、でもそれがふだんまったくもちいない言葉だったりするとなんだかくやしい。たとえばおれはいまでも「弁証法的唯物史観」とうつのはものすごくはやかったりするんだけど、もう目にもとまらぬはやわざでうちこめてしまったりするんだけど、でもその後のじんせいで実際にこれをうちこむ機会というのはついぞなかった。たからのもちぐされというのはこのことをいう。のだろうか。
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