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なにをおもったのかマイクオールドフィールドの「呪文」のライブをさっきからきいている。なにをおもったのか? なんにもおもっていない。っていっしょうおれはこのパターンでおしとおすつもりなのか。それすらおもっていないわたしがぽいうです。どうも。「呪文」ていうのはいきなりロクゴーのでだしではじまるんだけど、ってこんな用語をもちいてもつうじるひとはあまりいないとおもうんだけど、六拍子と五拍子が交互にくりかえされるということです。バンド仲間なんかでは「呪文ってあれはリズムはなんなの?」「ああ、あれはロクゴーだよ」というふうにつかったりする。でもさらにいうとほんとうは、六拍子とか五拍子とかいういいかたはただしくないのかもしれない。おれはじつは音楽の理論とかそういうのはぜんぜんわからなくて、拍子というのも譜面だと8/5とか12/69とかなんとか、分数のカタチであらわされるんだけど、なんで分数になってしまうのかじつはさっぱりわかっていない。だいたい4/4というのは1じゃないのか。なんで約分しないんだ。そんなことすらわからないままきょうまですごしてきてしまったので、たんに六拍子とかいっただけではいけないのかもしれないし、いけなくないのかもしれないし、どっちなのかはわからない。でもつうじるよね? つうじりゃいいんだよこんなの。
拍子というのはふつう街中で耳にする音楽っていうのはエイトとかジュウロクとか、たまにロクとかジュウニとか、そういうのがほとんどなんだけど、まれにそれいがいの、ゴーとかナナとかジュウイチといったたわけた素数のやつがあったりして、そういうのを耳にするとおもわずうれしくなってしまう。そのあたりのことは意識しないままなんとなくつねにかんじていて、ちょっとでもヘンだったりすると「あれ、これヘンだ」とおもわず指を折って数えはじめてしまう。そしてうれしくなる。ようするにすきなんですね。変拍子というのが。理屈ぬきで。たとえばここでなんどかもちだしたイエスの「サイベリアンカートゥルー」なんかはハチナナです。これを例にとっていうと、この曲がはじまるとこころのなかでイチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、イチ、‥というふうに数えてるんだけど、この「シチ、イチ」というところがもうたまらない。これがいれこまずにいられようかというくらいたまらない。それのなにがたまらないのかときかれてもこまる。エイトでなくゴーとかナナとかいった拍子をもちいることにどういう意味があるのかときかれてもますますこまる。たぶん意味なんてない。でもたまらないものはたまらないのだ。そして、そういうひとはときどきいて、「あれがたまらないよね」「そうそう、たまらないんだよね」「うんうん」と妙な連帯感をいだいてしまったりする。たとえばイエスのひとたちはこういうのがたまらないとおもってるんだとおもう。だからこういうハチナナの曲をつくって、「これ、たまらないよね」(ジョンアンダーソン)「そうそう、たまらないんだよね」(クリススクワイヤー)「うんうん」(ビルブルッフォード)とかいいながらハチ、ナナ、ハチ、ナナ、と演奏してたんだとおもう。こういう曲は、そういうのがたまらないにんげんがあつまって、じぶんで演奏してしまうともうじんせいそこで終わりである。演奏していると独特な不思議な高揚感というのがうまれてきて、熱中してしまうことになる。いっしょうこれをつづけていたいとおもうくらいいれこんでしまう。そしてこの変拍子というやつのこまったところは、はじめはゴーとかナナとかでよろこんでいられるんだけど、だんだんそういうのではあきたらなくなって、どんどん複雑になってってしまう。セックスなんかもだんだんふつうではあきたらなくなってどんどんアクロバティックな体位だとか高度に精神趣味的なプレイを追求してしまうものだけどそれとにている。おれにも変拍子に凝っていた時期というのがあって、二十歳くらいのころなんだけど、そのころはもうなにがなんでも変拍子じゃないと気がすまなくて、エイトの曲なんかでもわざとゴーサン(足してハチ)だとかゴーロクヨンサン(足してジュウロク)だとかにこころのなかでおきかえてのっていた。あきれるかもしれないけど、でもおれなんかはベースのひとだからじつはまだましなのであって、世の中には変拍子ずきのドラムというのがいて、このひとたちはもうなにをかんがえているのかわからない。どこをどうきざんでどうのっているのかわからない。学生のころいっしょにやっていたドラムがそういうやつで、すでにプロとしてやっていたのでテクニック的にはけっこう上級だったんだけど、こういう上級な変態ドラマーとやるベーシストというのは災難である。「おまえそれはどういう意味だ?」とか「おまえそれはおれにケンカをうってるのか?」とこころのなかでそういうツッコミをいれずにはおれないオカズが雨アラレアラシとふりつけてくる。おまえがそうくるんならもうおれにだってかんがえがあるんだもんね、もうこういうやつは無視してじぶんのことはじぶんで面倒みちゃうんだもんね、としたをむいてじぶん探しの旅にでたかのようなベースプレイを展開することになる。しかし密室で楽器をもちよってこういう内向的な娯楽に興じているぶんにはまだいいんだけど、これがひろい世間にでてもまだこういうたわけた自己主張をしだすとかなり問題がある。なんどかこのドラムと新宿のディスコにいったことがあって、とうじディスコというのはとうぜん「ベッタンベッタン」とか「ドンツクドンツク」といった四の倍数の音楽が大音響でなりひびいていて、変拍子の曲なんかはまず「絶対に」かかったりはしないわけなんだけど、こっちは変態なのでそんなねむたいものはとうぜん耳にはいってこない。はいってくるのは「ニーサンサン(足してハチ)」とか「ニーゴーサンサンサン(足してジュウロク)」といった、作曲者の意図をそこまでないがしろにするのか、といった無理矢理変拍子の曲である。でもおれなんかはけっこう社会的常識人なので踊るときはちゃんとエイトとかで踊るんだけど、ドラムはどうもそういう社会的常識というものがまるで欠落していたやつで、じぶんの都合のいいように曲をアレンジしてじぶん勝手に踊っている。ニーサンサン、ニーサンサン、ニーゴーサンサンサン、というかんじで踊っていて、するとどうなってしまうかというと、はたでみていて明らかにずれている。たとえばフロアで踊っているひとたちが五十人いたとして、四十九人まではみなさんたのしくおなじのりで踊っているにもかかわらず、かれひとりだけが明らかにういている。なんていうか、みんながおなじ方向にむかってあるいているのにひとりだけ逆走してるようなかんじである。たぶんあの踊りをみたひとたちはみんな、なんだあのまるで悪夢でもみているようなヘンなやつは、ひどくリズム感のわるいやつがいるなあと感じたとおもう。あれがところかわればパラディドルを駆使したドラムをたたきだすのだといっても、きっとだれもしんじなかったろうとおもう。パラディドルってなんだ? いやおれもしらないんだけどそういうドラムテクニックがあったような気がしたのでかいてみた。とにかくそういうわけだからもしあなたがどこかでそういう、あきらかに踊りのおかしなひとをみかけたら、もしかしたらそれはリズム感がわるいのではなくて、かれは孤高の変態ドラマーなのかもしれないということだ。かといってだからどう対処しろということでもないんだけど。
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