[2002年03月21日] 号
とんかつ定食(ひる)

 とつぜんであるが号というものをおもいついたので本日ただいまよりそれをなのることにする。不笑堂という号である。今後は不笑堂主人ぽいうということでよろしくお願いする。余もそろそろ老年の域をむかえるにあたり、ここらで号などというものをなのって世間をたばかってみるのも一興かと、かように血迷ってみたわけである。つまるところ、ひとことでいって、春がきた。と。この脳にも春がきてしまった。と。そういうことかとおもう。おこのみによっては先生をつけて、不笑堂主人ぽいう先生などと余をよびつけてみるのも可である。どのみちひとから先生などとよばわれるものにはろくな人間がいないことをおもいだせば、余を先生とよぶことにも抵抗はなくなるはずである。そのあたりは読者諸賢の判断にまかせることとする。
 さて、ちかごろの余であるが、なにやらやたらめったらとねむたい。もとよりねむたい男ではあったが、いよいよもってねむたい。とくに平日の昼間、職場にいるときのねむたさといったらもう、地獄的である。じっさいしょっちゅう記憶がとぶ。少々都合がわるいが、ねむたい以上はしかたない。なんとかがんばってねむるのをこらえてはいるのだが、実のところ、たんにマブタを持ち上げているだけの人間となりはてている。だれかに話しかけられても、その内容はちっとも耳にははいってはこず、相手のくちもとをみながら、人間のくちの動きというのはおもしろいものだなあとくだらんことをかんがえているしまつである。眠気というのはまったく、人間をだめにするものである。
 では休日の昼間はどうかというと、これがまたねむい。いったいこれはどうしてしまったのかというくらいにねむたい。本日ただいまのことであるが。はなはだねむい。ケツの穴までねむい。オレって大人だったよな、とみずからをうたぐってしまうくらいねむたい。大人ってこんなにねむたがったりはしなかったよなあとおもうとなんだか格好がわるい。
 高校生のころ、どうして余ばかりがこんなにねむいのだろう、しかし大人になればそれほどねむくなくなるみたいだからいまのうちねむっておこうとよくねていたのだが、じっさいに大人になってみてどうかというと、いまだにねむたい。いまもねむい。ねむくてしかたがない。だいたいそもそも余はつねづね疑問であったのだが、みんなねむくないのか? なんでねむくないのだ? それともほんとうはねむいのを我慢して見栄をはっているだけなのか、そのへんはさだかではない。
 春である。

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