|
くつしたについてはかねてより一言いいたいことがある。一言どころか二言も三言もいいたいことがある。筆者はくつしたがきらいである。憎んでいるとさえいってもいい。もうひとつ、筆者がこの世で憎んでいるものにシャツの第一ボタンというのがあるが、第一ボタンはしめているとやがて身体のほうがなれてきてあきらめてくれるのにたいして、なにがあっても、どうあってもけしてなじんでくれないのがくつしたである。この世で憎むものがふたつしかないというのだから筆者はそうとうに温和で平和的なにんげんであると公言してはばかりへいく筆者であるが、こんなに温和な筆者にさえ憎まれてしまうのであるからくつしたというのはそうとうに因業なやつである。頑固でへそまがりで強欲なやつである。だいたい筆者にふしぎでならないのは、なぜあんなあしもとばかりをぬのでくるんであたためる必要があるのか。なぜそんなあしもとばかりを過保護にするのか。神はにんげんのあしもとをそのように脆弱にはつくりたもうてはいない。くつしたになどなんの意味もない。その存在にはねうちなどなにもない。あんな無価値な連中とは金輪際すっぱりと縁をきってせいせいとした気ぶんになって青空にむかって深呼吸をしてみたいとねがう筆者なのだが、なかなか現実はそうもいかず、きょうもイヤイヤながらくつしたを着用する。くつしたはいつもじつにふゆかいな心持ちでもって筆者のあしもとをなまあたためるのであった。そんな筆者のささやかなたのしみといえば、くつしたのはんぶんずりおろしである(図1)。くつしたの半殺しというか、生殺しというか、こういったなさけない状態こそくつしたにはにつかわしい。このようにアラレもない姿をくつしたにさせることによって筆者はおおいに溜飲をさげることができる。じつをいえばこれにはさらにここちよいカタチというものがあって、半殺しスペシャルとでもいうべきものがあって、それはこういう状態である(図2)。そんなダラシのないはきかたをするのならいっそぬぎなさい、と家人はいうが、ちっともわかっちゃいねえな、と筆者はいいたい。これがいいのだ。我慢に我慢をかさねてくつしたを着用して不快な一日をすごして夜になっていえにかえって、そうしてくつしたをはんぶんズリおろしたとき、くつしたによってなまあったかくなったあしの裏の血液がカカトのあたりからす〜っと解放されてゆくこのヒンヤリ感がじつにたまらない。たしかにこの快感をあじわうだけならくつしたをぬげばよい。だが、それだけでは、くつしたに恨みをはらしたことにはならない。くつしたにアラレもないポオズをとらせてあざけりわらってこそ、真の復讐が完成する。こつずいにまでしみた恨みはこうすることではじめてはらされる。じっさい、このくつしたのぶざまさ、それを嘲笑するこの小気味よさ。だれがなんといおうと筆者はこのたのしみをすてるつもりはない。ついでにいうとこのさいもっともここちよい体勢というかフォームというかホームポジションというのがあって、ねっころがったお釈迦様の仏像みたいなカタチなのだが、それをここでご紹介しておこう。ようするにそれはこんなんである(図3)。こうやってくつしたをぶらぶらといたぶりつつ缶ビールをちびちびやりつつついでにあいた手でチンポのあたりをポリポリとかきつつテレビをながめるのは、もはやこの世の極楽とでもいうべきものがある。日中、筆者をえんえんとくるしめてくれたくつしたへのこれがお仕置きである。愉快である。じつに愉快である。わはははは、なんである。このたのしさをあじわうために筆者はひるま我慢をしてくつしたをはいているのだといってもかごんではない。だが、この体勢の難点は、こうしている筆者の姿というのは第三者にはいちぢるしく不快にみえるらしいんである。この姿を第三者にみられると怒られるんである。なんという情けない姿であるか、と第三者は包丁をもって筆者をさしころしかねないくらいのいきおいでもって怒るんである。まったくかんなんなんとかたまにするというやつである。いやきっとこの日本語はここでつかうのは適切ではない。それはわかっているのだがなんとなくかいてみた。ということで、ちかごろはこういったタイプのくつしたがあるみたいである(図4)。どうやら世間ではくつしたに憎しみをいだいている友人がずいぶんといるらしくて、それで改良されたものとおもわれる。改良。これこそじんるいをじんるいたらしめているわざであろう。紫電は改良されて紫電改となり、くつしたは改良されてくつした改となる。ついでにいうとこんなくつした(図5)というのも世の中にはある。言語道断、もはやこれは筆者にたいする挑戦としかおもわれぬカタチであるが、おもに婦女子によってもちいられるようである。こんなふうにして着用するみたいである(図6)。きこなし的には筆者のそれとどことなくにているが、これはくつしたへのお仕置きなのかなんなのかよくわからない。そもそも婦女子がなにをかんがえているのかは筆者にはわからない。だいたいどうしてこれ(図7)がよくてこれ(図8)がわるいのか、その判断基準というのはどのへんにあるのか、いちど筆者は家人にはっきりとといつめてみたいものである。という話はおいといてこのくつした改、すなわちやけにひらべったいみじかいくつしたであるが、じつはウチにもある。家人が近在のバッタ屋でたたきうられているのを購入してきた。ほほう、とうなってためしに着用してみたのだが、これがまたはいてびっくり、きもちいいんである。みんな、ウチのお中元にはこれをよろしく。サイズは25〜26センチです。とおもわずくちばしってしまうくらいにうれしいはきごごちなんである。しかし、そのよろこびもつかのま、だんだんとこれだけでは満足できなくなってくるのがにんげんの欲深いところで、ちょっとみじかくしてみたらきもちよくなったのであれば、もっとみじかくしてはどうかとかんがえた。もうどうせならいっそこういうくつしたをつくってもらえませんかね(図9)。はじめっからこうだったら家人もぶつぶついわないだろうし、筆者もこれくらいならまあくつしたにたいして譲歩してやってもいいかなとおもうし、どうですかね。あまったヌノのきれはしはあのひとらのあのぶぶん(図10)にでもつけたしとくっつうことで。名案でしょこれ。どうですかね。
|