|
太宰治をよんだのでその感想をしるしておくと、太宰治というのは文章がじょうずなひとでした。ってばかかわしは。しかし、じょうずであったものはじょうずであったとしかいいようがない。じょうずというのともまたちがうか。なんだろう。とにかく感心した。いままでまともによみもしないでコバカにしてごめんなさい。ぱんぱん(おがんだおと)。太宰治については、いろんなひとがいろんな意見をのべているのであろうとおもわれますが、わたしの意見としては、なんでもいいからかいときゃよかったひとです。内容はどうでもいいんです。かいときゃいいんです。そういうひとってたしかにいる。うまれつき並はずれてうまくはしれるやつはきっと、はしっているだけでたのしいはずで、それとおなじように、うまく文章がつづれるにんげんは、つづっているだけでたのしい。太宰治ってそういうひとだとおもう。でも、なかなかにんげん、つづるべきことというのはないので、紙に印刷してじんるいの歴史にのこしておくべきではないようなことをつづってしまうのももうしわけなくて、それでもつづるのはたのしくてつづらずにはおれなくて、そのへんの罪悪感というのが太宰治先生のあの低姿勢な、生まれてきてすいませんという発言にむすびついているとおもいました。というのは冗談だけど、内容がどうでもいいというのは、これはけっこうそうおもう。そして、これはほめてます。わかりづらいかもしれないけど、おれとしてはほめてます。だって、どうでもいいから、なんでもいいからなんかかいとけ、というのがゆるされるひとというのはめったにいない。ほめています。
しかし、ほんとにどうでもいいようなことばかりをかいてても調子はでないもので、なにか調子のでるテーマというのはひとそれぞれあるもので、そういうのをつづっているとどんどん調子がでてきて、かくのがたのしくてしかたがないというふうになっていって、その上機嫌がまたさらによい文章をうみだしていって、そういうふうにつづられる文章というのがある。わたしがよんだのは、そのうれしさというのが行間からひしひしとつたわってくる作品でした。どの作品かというと、『人間四角』です。いやちがいます。そんなかどばったひとはいません。『人間失格』です。これをよみました。どこでよんだかというとラスベガスへむかうヒコーキのなかです。そんなところでよまれたうえに、ラスベガスのホテルでひろげられたノートパソコンでこんな頓珍漢な感想をかかれたりするとは太宰治先生もユメにもおもってなかっただろうな〜。すごいぞ21世紀。ヴィヴァ! ラスヴェガス!
というわけでラスヴェガスにおける写真をひとつ。題して「敗者の手」。
|