[2002年07月23日] ウーロン茶とわたし

 暑くて暑くてねむられず、あたまのなかはウーロン茶でいっぱいになっている夜中である。どうにもねむられない。エアコンをかけてきんきんに部屋をひやして、北極熊がくらしてるみたいななかでねむりたいところなんだけど、同居人がそれをいやがるので、そうはできない。文句をいってもしょうがない。湿地帯のフォックスホールで夜明かしをする歩兵よりはずうっとましじゃないかとじぶんをなぐさめてねむろうとする。でもねむられない。よくひえたウーロン茶のペットボトルをおもいだす。それをごくごくとのどをならしてのむのをかんがえて、ますますねむられなくなる。ウーロン茶がなんだ。そんなものちっとものみたくなどあるものか。じぶんにそういいきかせるのだがむだなあがきである。とうとうおれはさいごの手段として、あのときのことをおもいだす。二十代のおわりの、秋のことだった。おれはひどい風邪をひいて、ぞうきんみたいにねこんでいた。ばかにしてはいけない。おれだって風邪くらいひくことはある。生死のさかいをさまよいながらねむりつづけ、午後になって目がさめた。おそろしくのどがかわいていた。テーブルのうえにウーロン茶のおおきなペットボトルがあって、なかみがはんぶんくらいのこっていた。それをコップになみなみとそそいで、ひといきにのんだ。おかしな味がした。のみおえてからそのことに気がついた。これはなんの味かとなやんで、たぶんコップがいけないのだろうと結論をした。それでだいどころにいってコップをていねいにあらい、部屋にもどってまたウーロン茶をそそいでのんだ。ふたくちほどのんだところで、まだおかしな味がするので、それでためしにコップのなかの液体をよくよくみると、まりもがふわふわと大量にうかんでいた。ややこぶりなまりもである。とたんにおえっときた。もしかしたらおれはこれから、ウーロン茶をみるたびにまりもをおもいだしてしまうかもしれない。あるいは、まりもをみるたびにウーロン茶をおもいだしてしまうのかもしれない。そういうまりもであった。そして、そういえばさいしょの一杯をのむときに、なにかふしぎな、ころころするようなぬるぬるするような、そういう感触がのどにあったのをおもいだした。あれはこのまりもののどごしであったか、とおもいあたった。こののどごしをたのしみたいというかたは、秋のいりぐちのあたりでウーロン茶をかってきて、室温で一週間ほど放置しておくことをおすすめする。そうすると観察できるみたいである。きれいですよまりも。でも、そのあと友人にこの件について報告をすると、それはまりもではないといわれた。ひどいことをいう友人である。なにがなんでもあれはまりもでなくちゃならない。むりやりにそうおもいこもうとしているこのおれの心情がどうしてわからんのか。コップ一杯なみなみとのんでしまったんだぞ。ころころしたんだぞ。ぬるぬるしたんだぞ。あれはまりもにきまっている。そうでなくちゃならん。なあ。そうだろう? たのむ。そうだといってくれないか? ……いや。まて。べつにいってくれなくてもいい。そうだ、おれはウーロン茶なんてのみたくないのだ。のみたくなどあるものか。ほんとはのみたいけど。でものみたくなんかない。ゆれうごく夏のおとこごころ。ウーロン茶とわたし。

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