[2004年09月04日] 理由なき反抗

さらに茨城県民性というものについてのべてしまうのだが、茨城のひとの性質に、非協力的というか、反社会的というか、無政府主義的というか、そういうものがある。みたいな気がする。たとえば読者諸君においては、「茨城」のよみかたについて、「いばらぎ」ではなく「いばらき」がただしいんだ、という主張をどこかでみかけたりきいたりしたことがありますまいか。この主張の意味するところは「だから「いばらぎ」ではなく「いばらき」といいなさい」というものである。こんな主張をきいてしまったら、茨城県民としてはもう、「いばらぎ」といわずにはいられない。「いばらぎっていうな」といわれると、いばらぎといわずにはおれない。そういう、するなといわれたことをせずにはおれない県民性というものがある。じっさい、茨城県民のおおくがきょうも茨城を「いばらぎ」と元気に発音しているわけだが、ここにはそういう事情がある。方言だとか茨城弁だとかダッペだとかはこのさい関係がない。たんにこれは茨城県民性の問題なのだ諸君。いやほんとに。あるいはたとえば、どこかに空き地があったとする。だれもそこにゴミを捨てようなんておもわない。でも、もしそこに「ココにゴミを捨てるな」なんて看板があると、とたんに捨てずにはいられなくなる。茨城県民性だ。もちろんゴミを捨てたいわけじゃない。そもそも、あたりかまわずゴミを捨てるなんてとんでもないことだとおもっている。そのへんの常識はある。でも、「ゴミを捨てるな」という看板があるともうダメである。「捨てるな」といわれたらもう、捨てるしかない。わざわざゴミをつくってでもむりやり捨てなくちゃならない。ためしにどこか、茨城県内のゴミひとつない空き地に「ここにゴミを捨てるな」という看板をたててみるといい。一夜にしてゴミの山ができているはずである。かんがえてみるとこういうのは反社会的とかいうよりも、たんにあまのじゃくとひねくれものとかいうような気がしてきたけど、とにかくそういう性質が茨城県民にはあって、おかげでおれなんかも大変に難儀である。なにしろ余計な立て看板というのはチマタにはそこらじゅうにあふれていて、「ここで立ち小便をスルナ」とかいうのがあったらしたくもない小便をしなくちゃならないし、「痴漢に注意!」とかいう看板があれば「ここでおれは何をどうすればいいのだろう?」としばらくなやまなくちゃならないし、それはもういろいろ大変である。いちばん迷惑なのは、断崖絶壁のてっぺんにいったりすると「はやまるな、まだどうにでもなる」とかなんとか、飛び降り自殺をおもいとどまらせようとする看板があったりする。う、こ、これは、である。とたんに目の前がまっくらになる。もちろんおれは死にたくない。そんなつもりなどまったくない。まだまだながいきしたいのだ。にもかかわらず、そんなことをいわれてしまったら、はやまるしかない。これはもうもってうまれた茨城県民の血がそうさせるのであって、しかたのないことなのだ。おれにはどうしようもないことなのだ。そういうわけでなくなく飛び降りたことがこれまで三度ほどある。さいわい一命はとりとめたが、ほんとにしぬかとおもった。こういう県民性というのもあるので、いいかげんそのたわけた看板群はくにじゅうから排除していただけないものですかね。

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