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●高村は、そもそもは、かなりいぜんのことになるのだが、おれが家庭教師をしていた女の子である。家庭教師のアルバイトはずいぶんとやった。たわけたやつは多かったが、高村はなかでもずいぶんとたわけたやつの部類にはいる。さいしょに高村の家にいったとき、ノートをひろげさせると「我命有限宝田先輩愛続」というらくがきがあって、なんだこれはとたずねると「がめいゆうげんたからだせんぱいあいぞく」という。だからそれはなんのことだとたずねると「我が命あるかぎり、宝田先輩を愛し続ける」とわらうので、さすがにおれもそうとうに嫌気がさした。こんなやつにbe動詞の格変化とか解の公式とかをおぼえさせてなにになるのだろうと、しょっぱなから無力感をかみしめずにはおれない生徒だった。だいたい高村は、約束の時間に家にいってもいないことだってしょっちゅうあったし、いたかとおもえばシンナーのにおいをぷんぷんさせていたり、いちどなんて、女のともだちとふたりでまさにシンナーをすっている場面にでくわしてしまったことだってある。ふたりでラリラリになっていて、これはどうしたものかとおもった。高村はすぐに目をさましたがともだちのほうがひどく酔っぱらっていて、凶悪なめつきでにらむのでおれはすこしこわくなった。それいらい、高村の家にいくときは玄関でみしらぬくつがないか確認してからあがるようになった。こういうろくでもない生徒にあたってしまったとき、家庭教師のとる方策はいろいろあるとおもわれるが、おれのとった方策は放置であった。いまさらこいつに向学心をうえつけるのは不可能だとおもったからだ。本人の自主性を尊重するという得意の逃げ口上で、おれは高村がやる気をだすのをまつことにした。もちろんほっといたらやる気なんてでないのは百も承知である。ただ2時間、高村と世間話をしていただけなのになぜか高村の家はきちんと月謝をくれたし、高村の成績がまったくよくならなくても、なにひとつ文句はいわれなかった。高村の家は地元では通称「迷い橋」とよばれている橋のたもとの、まったくおなじ家が十軒くらいならんでいるところの一軒で、そこでおじいちゃんとおばあちゃんとおかあさんと四人でくらしていた。しかしおかあさんはいちどもみたことがない。いついっても家にはいなかった。おじいちゃんは寝たきりだったらしく、玄関からあがるといつも奥の部屋のフトンに寝ていた。おばあちゃんは真光だか生長だかわすれたが、なにかの信者で、ときどき熱心になにか祈っていた。おばあちゃんにあいさつをして、二階にあがると高村の部屋があった。中央にちいさなテーブルがあって、そこでおれたちはむかいあってすわり、ひたすら世間話をした。話題がなくなるとおれは寝転がってマンガをよみ、高村は手鏡にむかって前髪をいじったりしていた。高村はかおはかわいかった。たぶん男の子たちにちやほやされているんだろうなというのは想像がついた。それで高村も色気づいてしまったのであろう。高村のする話は男の話かバイクの話ばかりだった。仲間うちに気にいらない女がいて、先輩の男たちにけしかけて、その女をさらい、クルマにのせて筑波山までいき、山の中で全裸にして捨ててきたんだ、といった話をうれしそうにしていた。やがて入試の季節になって、あたりまえだが、高村は受験に失敗した。それから高村がどうしていたのかはしらない。その後高村にあったのは高村が二十歳くらいのときで、地元の村さ来にいったら高村がいた。おれたちはびっくりして、それから高村の近況をきいた。高村にはふたりの男の子がいた。恋人ではない。息子だ。高村は結婚し、子供をふたりうみ、離婚していた。相手は、おどろいたことに、宝田先輩だった。しかし宝田先輩は仕事もしないうえ、暴力があまりにひどく、別れたとのことだった。夕飯にカレーうどんをだしたら、どんぶりごと投げつけられてやけどをしたとかそういう話だった。我命有限はどうしたんだよとつっこみたかったが、おれは我慢した。高村はあいかわらず、おれとは完全にちがう世界でいきてるみたいだった。でも、世界がちがうからといって、話があわないとはかぎらない。それどころか、高村とおれは、気があうみたいだった。それからときどき高村に誘われるようになった。いま飲んでいるからこい、という誘いだ。いつも村さ来だった。誘われて、いくときもあったし、いかないときもあった。高村は明るいやつで、いっしょに酒をのんでいるとたのしくはあった。そんなふうに二年ばかりすぎたころ「できちゃったみたいなんだ」と高村がいった。妊娠したといっているらしかった。「だっておまえ、なんだよそれ、男いたのかよ」「うん。まえのダンナ」「はあ? それって、離婚したまえのダンナ?」「うん」おれにはまったくわけがわからないことだった。妊娠してしまったいじょうは籍だけはまたいれるつもりだといっていた。うまれてきたのは女の子だった。しかし、その子がうまれるまえに、まえのダンナとはあんのじょうまた別れていた。なにが我命有限だ、とまたしてもおれは高村につっこみたかったが、いわずにおいた。さすがに三人目の子供がうまれたあとはめったに誘われなくなった。それでも、ときたまは飲んでいた。高村が職をさがしだしたので、紹介をしてやったりもした。インスタント食品をつくる工場の仕事だ。しばらくして、工場の関係者から感謝された。いいひとを紹介してくれた、というのだ。高村の仕事は、おそろしくはやく、しかもきれいで、まちがいがないという。ひとには意外な才能があるものである。いちばんうえの子が小学校の高学年になると、したの子の面倒をみてくれるようになったらしく、高村はまたしょっちゅうおれを誘うようになった。なんどかその子にあったことがあるが、礼儀正しいしっかりした子供だった。すでに自制心というものを身につけているみたいだった。最後に高村にあったのはおれが結婚をするすこしまえだ。「こんどおれ、結婚するんだよ」というと、高村は涙を流してよろこんだ。「よかったねえ」と高村があまりにうれしがってくれたので、おれもちょっとだけぐっときてしまった。それから高村に誘われることはぴたりとなくなった。もしかしたら、たぶん、遠慮しているのだろう。ばかなやつだ、とおもう。
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